「最初の世界帝国」アケメネス朝
(第2章11/15)
今回は古代オリエント文明の11回目(全15回)。前回はアケメネス朝を作ったイラン人の起源と彼らの歴史を扱いました。
この記事では、アケメネス朝がオリエント世界を征服する様子と、アケメネス朝の帝国としての統治について見ていきます。アケメネス朝はこれだけの広い領土を、実に上手で巧みな方法によって支配しました。またこの記事の最後にアケメネス朝の王たちが信仰したゾロアスター教についても触れます。
2.2.12 「最初の世界帝国」アケメネス朝
アケメネス朝の歴史を見る前に、アケメネス朝の領土がどれだけだったのかを見てみましょう。最大の領土を見てみますとこんな感じです。
現在の国名で言うならばこんな感じです。これだけの国の領土になります。
エジプト、リビア(一部)、ブルガリア(一部)、ギリシア(一部)、トルコ共和国、シリア、イスラエル、ジョージア(旧グルジア)、アルメニア、アゼルバイジャン、イラク、イラン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、アフガニスタン、パキスタン(一部)、カザフスタン(一部)、キルギス(一部)、タジキスタン
これだけの領土を一体どうやって支配したのか、と疑問が湧きますね。
そうです、それがアケメネス朝を知るためのテーマになります。
では、アケメネス朝(紀元前550~330)の歴史を追っていきましょう。
アケメネス朝の帝国への道
アケメネス朝は、初めイラン高原の南のファールス地方にイラン人が建てた国でした。ちなみに、このファールスという地名がイランの呼び名「ペルシア」の由来になります。ただし、ペルシアというのはヨーロッパ人たちがイラン人を呼ぶ場合の呼び名です。
アケメネス朝は、最初はアッシリアから分かれたメディア王国の支配下にありました。7回目と8回目で学びましたが、キュロスが新バビロニア王国を滅ぼした時に、ユダヤ人たちは「バビロンの捕囚」から解放されたのでした。バビロンに連れ去られていたユダヤ人は、キュロスの命令によって故国のパレスチナに戻ることが出来ました。
キュロスの子カンビュセス2世(在位、紀元前530~522)は紀元前525年にエジプトを征服しました。その次のダレイオス1世(在位、紀元前522~486)の時代には西はエーゲ海、南はエジプト、東はインダス川までの領域にまで領土を伸ばしました。
アケメネス朝の支配の秘訣
では、どうやってこの広大な領土を支配したのでしょうか?これがこの記事のテーマです。
ポイントは3つあります。まずアッシリアとは違い、地方の文化を受け入れ、尊重して、地方の自治をある程度認めたことです。自治というのは読んで字のごとく、自分たちのことを自分たちで治めることです。実際には、地方に必要な政策を自分たちで決めて、地方で行うことを自治と言います。
次に、地方にある程度自由と権限を与えつつも、中央集権体制にて地方を監督し、支配したことです。中央集権というのは、王の支配が領土全体に行き渡るようにする政治の体制、仕組みのことでした。
最後に、商人を利用し、保護して、商業、商取引を活発にしたことです。
それでは、この3つのポイントが具体的にどのような政策だったのか、見ていきましょう。
最初のポイントですが、良い例はキュロス2世が、バビロンに連れ去られたユダの民に、故国のパレスチナに戻ることを許可したことです。さらにキュロスはユダの民に、彼らの神ヤハウェへの信仰も許しました。
また、地方を治める方法として、領土を20余りの州に分け、それぞれの州に知事(サトラップ)を置きました。この州の中で、ある程度の民族の自治が認められました。
次のポイントですが、一つの例は「王の目」「王の耳」と呼ばれる官僚(王に直接仕える役人)を置いて、地方と地方の長官のサトラップを監督したことです。地方の民族の自治をある程度許しつつも、地方の監督は抜かりがありませんでした。
また領土の交通上のポイントを結ぶ「王の道」を整備しました。さらにはアッシリアでも採用された駅伝制を採用しました。駅伝制とは、1日進める距離ごとに宿駅という宿を設けて、宿駅の間をリレーして情報を伝える情報収集の仕組みです。
アケメネス朝の下での商人の活躍
最後の商人を利用したというポイントは、この章の6回目で学んだアラム人とフェニキア人が大いに関わっています。
アラム人とフェニキア人は紀元前1200年頃に東地中海地方を襲った民族大移動の嵐の後に勢力を伸ばした、セム語系の民族でした。しかし、その後どちらもアッシリアの支配を受けます。
他の国の支配を受けたとはいえ、この2つの民族の商業活動は衰えることがありませんでした。
前にも学びましたが、その流れを受けて、アケメネス朝ではアラム語が公用語の一つとなりました。それだけ様々な地方で、商取引をする際にアラム語が使われていたことが分かります。またアケメネス朝のあまりに広大な領土の中で(ほぼ全オリエント地方を統一しました)、広い範囲に渡ってアラム人の商業ネットワークが出来ていたことも分かります。
もう一つの民族、フェニキア人についてはどうでしょうか?
フェニキア人が得意としたのは、海上の、海を渡った商業活動でした。他にも、後にギリシアの都市国家(ポリス)と戦うことになるペルシア戦争(紀元前500~449)では、アケメネス朝の海軍の軍船はフェニキア人の海軍のものでした。
あと注目すべき点は、アケメネス朝は金貨、銀貨などの貨幣(金属を材料にしたお金)を作り、それを領土全体に流通させました。貨幣を最初に作ったのは、アッシリアから分かれた小アジア(現在のトルコ共和国)のリディア王国ですが、アケメネス朝はその貨幣をより大きな規模で流通させました。
このようにアケメネス朝は商人を保護し、商業活動を活発にしましたが、それに対する見返りは莫大なものでした。
この章の初めに出てきた、ギリシア人の「歴史の父」と呼ばれる歴史家のヘロドトスは、帝国に集められた金や銀の量について記録しています。ヘロドトスによると、ダレイオス1世の時代に全国各地から集められた金や銀の量は、銀の重さに合わせて(換算して)、現在の重さで36万7000キログラム(kg)に達したとのことです。
ところで、これらのポイントはすべて第1章で説明した、帝国の統治の方法に当てはまります(第1章「広大な領土を統治する仕組み-官僚機構」、「帝国と経済、商業体制、そして法律の役割」を参照)。ですから、アケメネス朝の支配を調べるだけでも、帝国の支配についておおよそ分かります。
これからローマ帝国、ササン朝、そして中国の歴代の王朝、と様々な帝国が登場しますが、アケメネス朝とどこが同じで、どこが違うのか、比べてみるならば帝国の統治についての理解が深まるでしょう。
アケメネス朝の宗教、ゾロアスター教について
さて、アケメネス朝の王たちはゾロアスター教という宗教を信仰していました。ここでゾロアスター教について少し触れます。
ゾロアスター教は、メディア生まれのゾロアスターが始めた宗教です。
ゾロアスター教には代表的な神が2人います。それは善(光明)の神アフラ=マズダと、悪(暗黒)の神アーリマンです。この2人は争いますが、最後に悪は敗れ、最後の審判によって救われる者と滅ぼされる者に分かれる、と教えは説きます。
この最後の審判、最後の裁きの教えはユダヤ教やキリスト教にも見られる教えです。この時代以降のあらゆる宗教の教えに共通して見られます。
ところで、アケメネス朝の宗教的な儀式を行う場所の遺跡が今のイランにも残っています。最後にこのペルセポリスの遺跡について触れておきます。
ペルセポリスはギリシャ語で「ペルシア人の街」という意味です。イラン人はこの街を「バールサ」と呼んでいました。一年の豊穣(豊かな実り)を願う新年の祭りがここで行われました。ペルセポリスには王の宮殿がありました。大きさは長さ455メートル、幅300メートルで、オリエント史上最大の宮殿でした。
このペルセポリスは、アケメネス朝を滅ぼしたマケドニア(ギリシア)のアレクサンドロス大王によって破壊されます。現在は遺跡が残り、アケメネス朝の栄光を伝えています。
この記事では、最初の世界帝国と呼べるアケメネス朝について解説しました。特に信じられないほどの広大な領土をどのように支配したのか、その巧みな統治について説明をしました。
次の記事からは、もう一つの古代オリエント、古代エジプトについて解説します。
この記事のまとめ
- イラン高原の南のファールス地方にイラン人がアケメネス朝を建てた
- 王キュロス2世はメディア王国から独立し、リディア王国、新バビロニア王国を滅ぼした
- カンビュセス2世はエジプトを征服し、その次のダレイオス1世は一大帝国を築いた
- アケメネス朝は領土を20余りの州に分け、それぞれの州に知事(サトラップ)を置いた。州の中ではある程度の民族の自治が認められた
- 「王の目」「王の耳」と呼ばれる官僚を置いて、地方と地方のサトラップを監督した
- さらに中央集権体制を固めるため「王の道」を整備し、駅伝制を採用した
- アラム人やフェニキア人などの商人を利用して、商業活動を活発にした
- アケメネス朝はゾロアスター教を信仰した
- ゾロアスター教では善の神(光明神)アフラ=マズダと悪の神(暗黒神)アーリマンがおり、最後の審判の時に悪が敗れると教える
- ペルセポリスには宗教的な儀式を行うための壮大な神殿が建てられた