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古代エジプトの概観

(第2章12/15)

今回は古代オリエント文明の12回目(全15回)。前回は最初の世界帝国、アケメネス朝の統治について解説しました。

この記事からは、もう一つのオリエント世界、エジプトの歴史を扱います。まずは古代エジプトの特徴をざっと取り上げます。前の記事まで取り上げたメソポタミアの周辺との違いを意識して読んでください。

2.3 古代エジプト

2.3.1 古代エジプトの概観

「エジプトはナイルのたまもの」、とこの章の最初の記事で出てきました。この言葉は、ギリシアの「歴史の父」ヘロドトスの言葉とされていますが、最初は同じギリシア人のヘカタイオスがナイル川の河口付近のデルタ地帯(三角州)を指して言った言葉のようです。デルタ地帯とは、大きな河川の河口付近でいくつもの川に分かれる、その一帯を指します。

エジプトはまた、ナイル川が自然の城壁となっているため、外国から攻め込まれる心配があまりありませんでした。エジプトはメソポタミアと違って戦乱も少なく、安定して王朝が続きました。さらにエジプトの西側にはサハラ砂漠が広がっています。

エジプトはオリエント地方で最大の食糧生産地帯として、また安定した王朝の統治のもとで独自の文化を生み出してきました。では、まず「ナイルのたまもの」とはどのような現象を指すのか、見てみましょう。

「ナイルのたまもの」とは?

これからこの「ナイルのたまもの」に関連して、どのような文化が生み出されたのか、注目して読んでください。

「ナイルのたまもの」とは毎年決まった時期にナイル川が増水し、氾濫はんらんし、それから水が引く現象を指します。

ナイル川は毎年7月に増水し、11月まで続きます。といってもエジプトは乾燥地帯で雨はあまり降りません。ナイル川を増水させる水はどこからやって来るのでしょうか?

エチオピア高原に季節的に降る大雨がナイル川に流れ、ナイル川は決まった季節に増水します。エジプトよりはるか南方に降り注ぐ雨が、ナイル川を伝わって来るのです。

増水したナイル川の水は、氾濫し、ナイル川の外の耕作地帯に注ぎます。周辺の畑を水で満たし、水が引いた後に、肥えた、栄養分の多い土が畑の表面を覆います。この畑の表面を満たす土は、上流から運ばれる泥土でいどです。この土にちなんで、エジプトの民は自分たちの土地を「タ・ケムト(黒い土)」と呼びました。

この「ナイルのたまもの」のおかげで、エジプトはオリエントで一番の食糧生産地帯となり、豊かな文化が生まれました。

暦を作り、土地を測る

しかしながら、エジプトの豊かさを保つには、この「ナイルのたまもの」とうまく付き合う必要があります。ナイル川が氾濫する時期に川沿いの平地から離れ、それが収まった時に元の土地に戻り、耕作を始める、一年の中でこのような決まった作業を繰り返さなくてはなりません。

そのために必要なことは、ナイル川が増水する時期を予測することでした。正確な暦が必要でした。また増水が終わり耕作を開始する前に、畑を正確に区割りしなくてはなりませんでした。

エジプトではまず、正確な暦を作るために天文学が発達しました。また土地を正確に測る測地術そくちじゅつが生まれました。測地術からは図形を描き、図形に見られる(例えば三角形などの)法則、決まりを探る幾何学きかがくという学問が生まれました。

エジプトでは星を観察し、増水が始まる時期に決まった星の動きが見られることが分かりました。日の出の時刻に明けの明星シリウスが昇る太陽と同じ位置に現れるという現象です。そこでエジプトではこの日を元日とし、1年を365日とする太陽暦たいようれきという暦が開発されました。この太陽暦は、後に古代ローマ(共和政ローマ)の英雄、ユリウス=カエサル(紀元前100~44)が採用し、ユリウス暦と呼ばれるようになります。

エジプトで使われた太陽暦は、現在使われている暦とほぼ同じです。

ところで、メソポタミアで使われていた暦はどのような暦だったでしょうか?それは、月の満ち欠けを基にした太陰暦たいいんれきでした(第1章「文明の始まり-シュメール人の都市国家」を参照)。

月の満ち欠けの周期(あることが起きてからまた同じことが起きるまでの間隔、例えば新月から次の新月までの日数など)は29~30日ですので、1年を12か月とすると1年は約355日となり、太陽暦よりは10日ほど少なくなります。やがて3年に1度、13月という「うるう月」を置いて暦を太陽暦に合わせるようになります。これを太陽太陰暦と言います。日本でも明治維新まではこの太陽太陰暦が使われていました。

「ノモス」から王国へ

さて、エジプト人は古くからこのナイル川の恵みを利用して生活を営んでいました。そこでナイル川沿いにはノモスと呼ばれる村、集落がいくつもありました。

そのうち、より大きな集団で耕作を行った方が生産的なので、ノモスを統一しようという動きが生まれます。とはいえ、より大きな集団となるには、耕作の土地を公平に分配する、割り振ることの出来る指導者が必要です。そのためより多くのノモスを結集させ、治める指導者が求められました。

まず多くのノモスは、ナイル川のデルタ地帯のしもエジプトとそれより上流のかみエジプトという2つの王国にまとまります。紀元前3000年頃、上エジプトの王メネスが下エジプトを征服して、統一国家が生まれました。

王メネスによる統一から、紀元前4世紀(前300年代)のアレクサンドロス大王によるエジプトの征服までを古代エジプト王国と呼びます。その中でおおよそ30の王朝がありました。この間、途中で異民族が侵入したり、外国の支配を受けることはありましたが、王朝はメソポタミアと比べると安定していました。

この章の最初に説明しましたが、この約30の王朝を特に重要な時期で3つに分けます。その3つとは、古王国(第3~6王朝)、中王国(第11~12王朝)、新王国(第18~20王朝)です。

この記事では、古代エジプトがどのような地域だったのかを大まかに見ていきました。

次の記事より、古代エジプトの主な3つの時期について解説します。

この記事のまとめ

  • ナイル川は毎年7月に増水し、11月まで続く、その後の周辺の土地はは栄養分が豊かで、収穫も多い。この現象を「ナイルのたまもの」と言う
  • 「ナイルのたまもの」を利用するために、正確な暦を作り、土地を測る必要があった。そのために天文学測地術が発達した
  • ナイル川の増水が始まる時期を予測するために太陽や星の動きを観察し、1年を365日とする太陽暦を採用した
  • ナイル川沿いにはノモスと呼ばれる村、集落がいくつもあった。それらのノモスを統一し、初めに上エジプト下エジプトが生まれた
  • 紀元前3000年頃、上エジプトの王メネスが下エジプトを征服して、統一国家が生まれた

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