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古代ギリシア:スパルタ

(第3章7/15)

今回は古代ギリシアの7回目(全15回)。前回はポリスの発展の様子を見ました。

この記事では、代表的な2つのポリスの中の1つ、スパルタについて見ていきます。

スパルタを知るポイントは2つあります。1つ目はなぜ男子に軍事教育のような訓練がなされたのか、という理由を言えること。もう一つは、スパルタには、スパルタ市民と先住民を含めて3つの身分があったことです。

やがてスパルタはポリス間の同盟であるペロポネソス同盟の中心となり、アテネを中心とするデロス同盟と戦います(ペロポネソス戦争、紀元前431~404)。

3.4.3 スパルタ

この章の2回目の記事で、現在のギリシア人の祖先である、インド=ヨーロッパ語系の民族の大移動が2回あったと述べました。

1回目の移動が紀元前2000年頃からで、この時の民族をアカイア人と呼びました。また2回目は紀元前1200年頃からで、この時の民族はドーリア人と言いました。

ドーリア人は南へ移動し、最終的にギリシアの南端、ペロポネソス半島やクレタ島に定住します。

紀元前1000年頃、ドーリア人の一派がペロポネソス半島の南側の先住民を征服し、自分たちだけが集まりポリスを作りました。ポリスの中に集まって住むことは集住(シノイキスモス)と言いましたね。2つ前の記事でも考えましたが、城壁で囲まれたポリスの中に集まって住むようになるのは、先住民の攻撃から身を守るためでした。

スパルタの市民は、先住民たちを支配し、さらに先住民たちの攻撃に備えなくてはなりませんでした。そこで、常に戦いの備えが出来るような体制を作りました。この体制は、リュクルゴス(紀元前8世紀~7世紀の人と言われる)という立法者が定めた、と言われています。この立法者については、次の記事のアテネの時代にもドラコンという立法者が出てきます。

さてスパルタには、スパルタ市民と先住民を含めて3つの身分がありました。第1の身分はスパルタ人です。第2、第3の身分はそれぞれ、ペリオイコイ、ヘーロイタイと言います。

スパルタ市民(スパルタ人)の役割

第1の身分はスパルタ人で、彼らは軍事と政治に取り組みました。自分たちが所有していた土地は下の身分の者に耕作をさせました。

スパルタ人の男子には独特の軍事的な訓練がされました。いわゆる「スパルタ教育」の由来です。

男子は7歳になると親元を離れて共同生活を送ります。その中で集団の訓練を受け、戦闘が出来る人材に育てられます。その後20歳で軍隊に入り30歳まで共同生活を送ります。その後も夕食は共同で食事を摂り、市民として、そして軍隊としての連帯感を育みました。

スパルタ人の政治については、スパルタには2人の王がいましたが、実際には貴族が政治を行っていました。30歳以上の市民で構成される民会もあり、民会に加えて王を含む30人からなる長老会が政治を指導しました。またエフォロイという1年の任期(役職を務める期間)の役人もおり、行政を担当しました。

行政というのは、決められた政策を実際に行うことです。例えば町で保育園を作る、と町の議会で決められたとします。それを受けて役所の職員が保育園の建設を計画し、保育士や、給食を作る職員などを集めて保育園を運営し、管理します。この保育園を建てて、運営することが行政の役割になります。

また民会、という言葉が出てきましたが、民会はこの次のアテネのところでも出てきます。古代ギリシアでは政治に参加する権利(参政権)を持つ市民が集まり、ポリスの政策に意見をし、決議(ポリスでの決め事のこと)に投票する場所が民会です。

ところで、スパルタの政治、行政の仕組みを見ますと、これは古代ローマ(共和政ローマ)の政治の体制に似ていることが分かります。次の章を先取りしてローマの体制を見てみましょう。

スパルタとローマの体制を比べると?

ローマにも議会として民会があります。ローマにも貴族と平民の差がありました。やがて民会から分かれて平民だけが参加する平民会も設けられました。

行政の組織としては、コンスル(最高政務官、執政官)をトップとする政務官の組織があります。また民会、平民会と別れて、政務官の経験者の集まりによる元老院があります。元老院は民会での決議や、政務官の行政の仕事をアドバイスするのが基本的な役割ですが、ローマにおいては大きな発言力を持っていました。

後に民会と元老院は政治抗争に利用されます。民会を支持した政治家、軍人を平民派、元老院を支持した側を閥族派ばつぞくはといいます。古代ローマの最後の100年間、紀元前140年から30年に渡る時代は「内乱の1世紀」と言われますが、この時代に2つのグループの争いが繰り広げられました。

古代ローマの話になりましたが、スパルタの政治体制との関係と似ていると思われませんか?民会はどちらもありますが、エフォロイという行政官がローマでの政務官にあたり、長老会は元老院と同じ役割です。

さて、これまでスパルタでの3つの身分の第1の身分のスパルタ人について、主に軍事と政治的な役割を見ました。

次に第2、第3の身分、ペリオイコイとヘーロイタイについて考えましょう。この2つの身分の者達がスパルタ人の支配を受ける者達です。

第2、第3の身分ペリオイコイとヘーロイタイ

第2の身分のペリオイコイは自分の土地を持ち、商業やもの作り(手工業)も行いました。重装歩兵として軍事に参加することも求められましたが、参政権はありませんでした。このペリオイコイについては、ドーリア人の中の身分の低い者という見方とドーリア人ではない先住民出身、という2つの見方があります。

第3の身分のヘーロイタイはスパルタ人の土地を耕し、収穫の一部をスパルタ人に貢ぐ(貢納こうのうする)義務を負った者です。ただしヘーロイタイは家族と財産を持ち、自分たちの集落に住むことが出来ました。そのため、完全な奴隷とは違った扱いを受けていた者たちです。

農奴制とは?

このヘーロイタイは、中世のヨーロッパでは農奴のうどと呼ばれる人たちと同じ扱いとなっていることが分かります。農奴は家族と農機具などの財産、家を持つことは許されましたが、地主のもとを離れることは出来ませんでした。農奴は地主の土地で働き(賦役ふえき)、また地主に収穫の中から一定の割合を納めました(貢納)。

農奴と同じ立場の農民は他の地域にも見られます。例えば中国のそうの時代(西暦960~1279)には地主の下で働く農民を佃戸でんこと言いました。佃戸は収穫の半分を地主に納めました。反対に地主層を形勢戸けいせいこと言います。この階級の者たちは家族から官僚(中央の政府に勤める役人)を送り出し、宋の時代の指導的な地位を占めます。この時代の中国では官僚を試験(科挙かきょ)によって採用していましたが、地主層が子供たちを熱心に教育し、試験に受からせてしまいます。

移動した民族が先住民を支配するパターン、インドの例

さてスパルタには、スパルタ人(市民)を筆頭に3つの身分があることを説明しました。スパルタ人はギリシア人の2度目の民族大移動でギリシアに移住したドーリア人の一派でした。これは第1章の最後の記事(歴史の通奏低音1「民族の移動が歴史を作る」)でも扱いましたが、移動して定住した民族が、先住民を支配する、というパターンです。

また話が飛びますが、ここで民族大移動に伴って定住した民族が先住民を支配する、というパターンをもう一つ紹介します。

それはインド北部のアーリヤ人による先住民の支配です。アーリヤ人はギリシア人と同じインド=ヨーロッパ語系の民族で、南に下って定住した、という共通点があります。

アーリヤ人はインド北部の先住民と身分の差を設けました。これをヴァルナ制度と言います。

ヴァルナというのは「色」という意味があります。肌の色で先住民と移動した民(支配する民族)を区別したことが、ヴァルナという言葉の由来のようです。

身分を表すヴァルナは4つあります。いちばん上の階級からバラモン(宗教指導者)、クシャトリヤ(貴族と兵士、政治を担当する支配階級)、ヴァイシャ(農民、商人など)、シュードラ(上の3つのヴァルナに仕える階級)です。

ほとんどの先住民はいちばん下のシュードラとされました。上の3つの階級に従うだけの身分にされました。シュードラはスパルタの3つの身分で言えばヘーロイタイと同じ階級と言えます。

やがてこの4つの階級の中にも職業や家柄で階級の区別が生まれます。これをジャーティと言います。ですからインドでの階級制度はヴァルナと合わせて、ヴァルナ=ジャーティ制度と言います。

ところで少し歴史を学んだことのある方ならば、インドでの身分の差別をカースト制度と言うのでは、と疑問を持たれる方もいるかと思います。

実はインドの身分制度をカースト、と呼んだのは西暦16世紀(1500年代)にインドに来航したポルトガル人たちです。彼らが使った「カスタ(家柄、血統の意味)」がカースト制度、という言葉の由来です。カースト制度は、現地の言葉ではヴァルナ=ジャーティ制度と言います。

最後に古代ギリシア以外の時代、地域についても考えました。歴史ではある時代、地域の歴史が他のものと似ている、と感じること、似たもの探しがとても大切です。本サイトのはじめに申しましたが、歴史では同じようなことが繰り返されます。その繰り返し、共通点に注目出来る能力が、歴史を知る、また歴史から学ぶ実力です(序章「0.2 歴史のポリフォニーとは?」を参照)。

この記事では古代ギリシアのポリスの中で代表的な2つのポリスの中の一つ、スパルタについて解説しました。いろいろと話が飛びましたが、ポイントは2つありました。1つ目はなぜ男子に軍事教育のような訓練がなされたのか、ということ。もう一つは、スパルタには、スパルタ市民と先住民を含めて3つの身分があったことです。

次の記事からもう一つの代表的なポリスであるアテネについて解説します。アテネを知るポイントは、どのようにしてアテネ市民が誰でも政治に参加できるようになったのか、ということです。それまでに様々な改革が行われました。それを時代を追って説明します。

この記事のまとめ

  • 紀元前1000年頃ドーリア人の一派がペロポネソス半島の南側の先住民を征服し、自分たちだけが集まりポリスを作った
  • スパルタの市民は、先住民たちを支配し、さらに先住民たちの攻撃に備えるため、スパルタ人の男子には独特の軍事的な訓練がされた
  • スパルタ人の男子は7歳になると親元を離れて共同生活を送り、その中で集団の訓練を受ける。20歳で軍隊に入り、30歳まで共同生活を送る。その後も夕食は共同で食事を摂り、スパルタ人としての意識を育てた
  • スパルタではスパルタ人の貴族が政治を行っていた。30歳以上の市民で構成される民会があり、加えて王を含む30人からなる長老会が政治を指導した。またエフォロイという1年の任期の役人が行政を担当した
  • スパルタには3つの身分があった、1つ目はスパルタ人、次にペリオイコイヘーロイタイと身分が分かれた
  • ペリオイコイは自分の土地を持ち、商業やもの作り(手工業)も行った。重装歩兵として軍事に参加することもあったが、参政権はなかった
  • ヘーロイタイはスパルタ人の土地を耕し、収穫の一部をスパルタ人に貢納する義務を負った。ただし家族と財産を持ち、自分たちの集落に住むことが出来た

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