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古代ギリシアの3つの時代(古代ギリシアまとめ)

(第3章2/15)

今回は古代ギリシアの2回目(全15回)。前回はいちばん始めとして、ギリシアの気候と地理的条件、そして最も重要な用語である、ポリスについて説明しました。

この記事では、古代ギリシアを3つの時代に分け、それぞれの時代の大まかな流れとポイントを解説します。

現役の高校生の皆さんはこの記事の内容を押さえるだけでも、中間・期末テストで得点アップが狙えます。古代ギリシアが出題範囲の時には大いに活用してください。

3.2 古代ギリシアの3つの時代(古代ギリシアまとめ)

前回の記事で、古代ギリシアの歴史は大きく3つに分けられる、と書きました。

それは、ポリス以前の時代、ポリス全盛時代、ポリス以後の時代、の3つでした。これからこの3つの時代を順を追って説明します。

ポリス以前の時代

最初のポリス以前の時代ですが、インド=ヨーロッパ語系民族の大きな移動が2回あります。この2回の移動でバルカン半島を南に下り、ギリシアの領土に定住した民族が現在のギリシア人の祖先になります。

インド=ヨーロッパ語系民族の最初の移動は紀元前2000年頃から始まります。この時に移動した民族をまとめてアカイア人と言います。2回目の移動は紀元前1200年頃からになります。この時に移動した民族をまとめてドーリア人と呼びます。この時、最初の移動の際に定住した民族はドーリア人たちに追われ、主にアイオリス人イオニア人に分かれます。この2つの民族は同じギリシア語を話しつつも、若干の方言の違いがあります。

この時にやって来たドーリア人の一部は、ギリシアの南端、ペロポネソス半島に定住します。これがポリスへと成長し、スパルタという有力なポリスが出来ます。スパルタは周辺のポリスを征服します。スパルタの市民は大勢の先住民を従えなくてはなりませんでした。また彼らの反乱を恐れました。そこで、市民の男子は7歳から集団生活を行い、兵士となる訓練を受けるという独特の体制が出来ます。

このスパルタの集団訓練の歴史が「スパルタ教育」という言葉の由来です。

ポリス全盛時代

2番目のポリス全盛時代ですが、主にアテネの歴史を考えます。ギリシアのポリスは最大で1500もありましたので、アテネだけをポリスと考えるのには無理があります。しかし、アテネの史料が圧倒的に多いために、アテネがポリスの代表のように扱われています。

前の記事でも述べましたが、ポリスの歴史を考えるポイントは、平民が政治に参加できるようになる流れです。最初は財産のある貴族が政治に参加する権利(参政権)を持ち、やがて平民の中でも自分で武器を揃えられるくらいの財産を持っている平民が政治に参加します。最後に武器を持たない平民も参政権を持ちます。

ポリス全盛時代にはギリシアの命運を分ける戦争がありました。アケメネス朝と戦ったペルシア戦争(紀元前500~449)です。最終的にギリシアのポリス連合軍がアケメネス朝の軍に勝利します。このペルシア戦争の後に、アケメネス朝の圧力からポリスを守る、という名目でデロス同盟(紀元前478)がポリスの間で結ばれます。しかし、この同盟によってアテネが他のポリスに圧力をかけ、支配するようになります。

この時に、アテネの力が増すことを恐れたポリスがあります。スパルタを中心にペロポネソス同盟を組んでいたポリスです。ここでアテネ中心のデロス同盟とスパルタ中心のペロポネソス同盟との戦いが始まります。ペロポネソス戦争(紀元前431~404)です。

ペロポネソス戦争はアテネの敗北に終わり、デロス同盟は解体されます。その後、いくつかのポリスの間の戦いが繰り返され、ポリスの間の結束、結び付きは弱まります。やがて、ギリシアの北側のマケドニアが力を増し、ギリシアのポリスを圧倒します。

ポリス以後の時代

最後のポリス以後の時代に移りましょう。この時代はマケドニアがギリシアを支配し、マケドニアがギリシアの枠を超えて東へと征服を行う時代です。アレクサンドロス大王がエジプトを制圧し、アケメネス朝を滅ぼします(紀元前330年)。アレクサンドロスの死後(前323年)、後継者(ディアドコイ)の争いが始まります。

最終的にアレクサンドロスが征服した領土(ほぼアケメネス朝の領土にギリシアを加えた部分です)は3つの王国に分かれます。プトレマイオス朝(エジプト)、セレウコス朝(小アジアとシリアより東側)とアンティゴノス朝(マケドニア)です。

アレクサンドロスがアケメネス朝の領土に侵入して以来、多くのギリシア人が東側へ移動しました。そこでギリシアの文化とオリエントの文化が融合された、新しい文化が花開きます。この文化をヘレニズム文化と言います。このサイトのはじめに紹介した北インドのガンダーラ地方(現パキスタン領)で見つかったガンダーラ様式の仏像は、ヘレニズム文化の大きな遺産です(序章:なぜ歴史を学ぶのかを参照)

アレクサンドロス以降に興った3つの王国のうち、最後にプトレマイオス朝がローマのオクタウィアヌスの軍によって滅ぼされます(アクティウムの海戦、紀元前31年)。オクタウィアヌスはこの戦いの後、アウグストゥス(尊厳のある者)と呼ばれ、皇帝と同じ扱いを受けます。ローマ帝国の誕生です。

アレクサンドロスの死から、このプトレマイオス朝の滅亡までの300年間をヘレニズム時代と言います。

この記事では、古代ギリシアの歴史を3つに分け、時代を追って大きな流れを説明しました。その3つとは、ポリス以前の時代、ポリス全盛時代、ポリス以後の時代、でした。

次の記事では、古代ギリシアの実際の歴史を解説します。まず、ポリス以前の時代の最初、クレタ文明についてです。

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