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古代ギリシア:ドラコンの成文法とソロンの改革

(第3章8/15)

今回は古代ギリシアの8回目(全15回)。前回は古代ギリシアの代表的なポリスの1つ、スパルタについて解説しました。

この記事から、もう一つの代表的なポリスであるアテネについて解説します。

アテネを知るポイントは、どのようにしてアテネ市民が誰でも政治に参加できるようになったのか、という点です。これは2つ前(6回目)の記事で出てきましたが、平民も兵士として参加するようになったことと関係があります。

3.4.4 アテネの発展

3.4.4.1 ドラコンの成文法とソロンの改革

アテネは紀元前750年頃より王による政治(王政)から貴族による政治(貴族政)に移りました。貴族の中からアルコンと呼ばれる役人が選ばれ、アテネを統治していました。やがて紀元前7世紀(600年代)にはアルコンの任期は1年に限定されました。

アルコンとは別にアルコンの経験者で構成されるアレオパゴス評議会という集まりがありました。アレオパゴスの丘で集まったためにこの名前が付けられたようです。この者たちも政治や裁判を監督するという名目で政治に影響力を持ちました。

アレオパゴス評議会は、前に記事にも出てきたローマの元老院と同じような機関です。アルコンもアレオパゴス評議会もどちらも貴族によって構成されています。このように貴族による政治が固まっていました。

しかし、この貴族政にひびが入る出来事が起こります。

紀元前632年にキュロンという人物が神殿のあるアクロポリスに立てこもり、独裁者として権力を振るおうとしました。キュロンは貴族と平民の両方の支持を得られず。この反乱は失敗に終わります。ですが、ここでキュロンを支持した者たちが何人か殺されるという出来事が起きます。この残酷な、行き過ぎた行為に及んだのは、この時のアルコンの親類でした。

このキュロンの反乱とそれが鎮圧された事件によって、貴族による政治への不満と疑いが生まれました。

ドラコンの成文法

この不満を交わすために、ドラコンいう者が現れます。ドラコンは立法者と呼ばれました。前の記事でもスパルタにリュクルゴスという立法者が出てきました。このような立法者は様々なポリスにいたようです。

ドラコンは文章にした法律を定めました。文章にした法律を成文法と言います。紀元前621年頃にこのドラコンの成文法が定められました。

法律は文章になっているのが当然じゃない?と思われた方もいるかもしれません。しかしこの時代は貴族が国を治めていた時代です。そこで政治や裁判の時には貴族の判断で法律が決められました。そしてそのような法律は文章にして公開されるものではありませんでした。

ドラコンが法律をあえて文章にして公開したことには意味があります。法律という決まり事が文章になっていれば、それに反した勝手なことを貴族が行うことは出来ません。「法律にこう書いてあるじゃないか」と訴えられてしまいます。ドラコンは、平民が抱いている政治への不満を解消するために、法律を公開しました。

しかし、それでも貴族と平民との対立は続きました。この対立は古代ローマ(共和政ローマ)でもあり、これを身分闘争と呼びます。

借金を返せずに奴隷になる者も

このような対立の中で、紀元前6世紀(前500年代)に入ってからは借金を払えずに、奴隷のように働かされる者が現れました。

この者たちは、借金を返せなかったら自分の体で、つまり働いて返す、と契約を交わして(約束して)借金をすることから生まれました。こういった借金が、奴隷のような労働者を生みました。

借金が払えなかった場合に貸し主に差し出す物を抵当と言います。借金の担保とも言います。借金が返せなかったら家が取られる、なんて話は聞いたことがあるかもしれません。この場合は取られる家が借金の抵当となります。

実はこの頃のアテネの平民には、体で返すと言って、自分の身体を抵当にしていた者もいたようです。このような者たちをヘクテモロイと言いました。ヘクテモロイは6分の1という意味です。おそらく収穫の6分の1を貸し主に支払ったことからこう呼ばれたようです。

ところで、これも2つ前の記事(6回目)で述べましたが、ギリシアのポリスでも紀元前7世紀(前600年代)より貨幣(金属のお金)が使われるようになりました。お金は商業活動を活発にしますが、それと引き換えにお金を稼げない、貧しい者は借金を重ねるようになります。

貧しい平民が増え、自分の身体を抵当にして借金をする者が次々と生まれる状況を何とか変えなくてはなりませんでした。この状況を放置することはポリスの危機でした。

というのは、武器を自分で揃えてポリスを守る兵士が少なくなってしまうからです。そのような点から、貧富の差の行き過ぎを止めなくてはなりませんでした。

ソロンの改革

そこで行われたのが、ソロンがアルコンとなって行った改革です(紀元前594または593)。

ソロンの改革のポイントは2つあります。一つは借金を帳消しにして、市民が身体を抵当に金を借りることを禁じたこと、もう一つは市民の財産に応じて政治に参加できるようにしたことです。

ソロンの時代に、アテネ市民は財産に応じて4つの階級に分かれました。財産は市民が持っている土地から収穫出来る農作物の量によって測りました。4つの階級は上から500メディノムス級、騎士級、農民級、労働者級と呼ばれました。4つの階級の中で役人になれるのは上から農民級まででした。労働者級は民会と民衆が参加する裁判(民衆法廷)には参加出来ました。

メディノムスとは穀物(の収穫の量)を測る単位でした。500メディノムス以下の階級の収穫の量は、騎士級が300メディノムス以上、農民級が200メディノムス以上とされました。

ソロンの改革は思った以上の効果を上げることは出来ませんでした。貴族と平民との対立は解消せず、貴族同士の争いも生じました。

このようなソロンの改革以後の混乱の中で、権力を手にした者がいました。僭主せんしゅと呼ばれたペイシストラトスです。

この記事では、代表的なポリスであるアテネの発展の歴史(主に政治の)の最初の部分を扱いました。貴族と平民との身分闘争をどうやって解決したのかがポイントです。

次の記事では、僭主せんしゅと呼ばれたペイシストラトスの政治と、その後のクレイステネスの改革について扱います。

この記事のまとめ

  • アテネは紀元前750年頃より王政から貴族政に移る。貴族の中からアルコンが選ばれ、アテネを統治した。紀元前7世紀にはアルコンの任期は1年に限定された
  • アルコンとは別にアルコンの経験者で構成されるアレオパゴス評議会という集まりがあった
  • 貴族による政治への不満、慣習法による支配の矛盾を交わすために、紀元前621年頃にドラコンの成文法が定められた
  • アテネでは借金のために、ヘクテモロイという自分の身体を抵当にしていた者もいた
  • アテネでは武器を持って戦う兵士を確保するためにも、身体を抵当に借財を重ねる者たちなど、貧富の差の行き過ぎを止める必要があった
  • ソロンはアルコンとなって改革を行った。まず借金を帳消しにして、市民が身体を抵当に金を借りることを禁じた。また市民の財産に応じて政治に参加できるようにした
  • ソロンの改革は思った以上の効果を上げず、貴族と平民との対立は解消せず、貴族同士の争いも生じた
  • ソロンの改革以後の混乱の中で、僭主ペイシストラトスが権力を得た

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