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古代ギリシア:ポリスの発展と支配体制

(第3章6/15)

今回は古代ギリシアの6回目(全15回)。前回はギリシア独自の、ポリスという都市国家がどのようにして生まれたのかを見ました。

この記事では、ポリスが発展していく様子を見ていきます。ポリスの市民は大きくは貴族と平民に分かれます。平民がどうやって政治、ポリスの支配に参加できるようになったのか、これがポイントです。

3.4.2 ポリスの発展と支配体制

ポリスはギリシアや、エーゲ海を挟んだ向かい側の小アジアの地形に合わせて作られた、城壁を持つ都市です。このような都市が生まれた背景には、外の領土に集落、都市を作る植民活動がありました。

それぞれのポリスは一つの都市を作りましたが、都市であると同時に独立した国家でした。それぞれのポリスで自分たちの守護神を祀り、共通の宗教を持っているという意識が連帯感を生みました。また他のポリスと戦争を常に行っていました。ですからポリスの中で育まれる宗教的な連帯感は、市民の戦士としての連帯感を持たせる目的もありました。

しかしながら、ポリスの間の交流と交易は盛んでした。加えて、ポリスの間では同じギリシア人だという自覚がありました。

共通の言語であるギリシア語を話している、という意識がポリスの間での仲間意識を生みました。そこでギリシア人は自分たちをギリシア語を話すヘレネスと呼び、他の民族をバルバロイと呼んで、自分たちが特別だという意識を持ちました。ヘレネスとは、伝説の英雄ヘレーンの子孫という意味です。反対にバルバロイとは、聞き苦しい言葉を話す者、という意味を持ちます。

他にもギリシア人としての仲間意識を持たせるイベントがありました。例えば古代ギリシアで有名なオリンピア競技があります。またデルフォイのアポロンの神託(神からのお告げ)にはあらゆるポリスから、そのお告げを聞きに集まりました。

ギリシア人の植民活動

さて、ここでギリシア人たちの植民活動がどれくらいの範囲で行われていたのかを見てみましょう。

代表的な植民市(植民によって出来た都市)を挙げますと(かっこ内は現在の名前)、南フランスのマッサリア(マルセイユ)、南イタリアのネアポリス(ナポリ)、タレントゥム、シチリア島のシラクサ、そして黒海の入り口ボスフォラス海峡沿岸のビザンティオン(イスタンブル)があります。

ここでビザンティオンという街が出てきました。ところで、前の記事では東ローマ帝国(ビザンツ帝国)という国が出てきました。かつてギリシアを支配していた帝国です。この「ビザンツ」という名前は、ビザンティオンという街の名前に由来しています。

ビザンティオン(ラテン語でビザンティウム)は西暦330年にコンスタンティノープルと名前を変えます。これはその時のローマ帝国の皇帝コンスタンティヌスが帝国の都をビザンティオンに移したからです。やがてローマ帝国は西ローマ帝国と東ローマ帝国に分かれます。東ローマ帝国はコンスタンティノープルを首都としました。東ローマ帝国は首都の昔の名前(ビザンティオン)にちなんでビザンツ帝国と呼ばれるようになります。

ビザンティオンはコンスタンティノープルと街の名前が変わりましたが、現在はイスタンブルと言います。これは後にビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国が街の名前を変えました。

これは余談ですが(と司馬遼太郎しばりょうたろう風に)、現在はイスタンブルの街の前に開けるボスフォラス海峡にはトンネルが通っています。このボスポラス海峡トンネルには日本の建設会社も関わりました。そのCMが一時期流れていました(大成建設のCM)。このCM、「君の名は」の新海誠監督によるものです。イスタンブルの街並みの絵が印象的です。

ポリスの支配体制

話が飛びましたが、次にこのポリスがどのように支配されていったのかを見てみましょう。

初めはポリスにも王がいました。しかし、王の権力は小さく、やがて貴族がポリスを支配するようになります。ポリス社会の貴族が平民と違う点は、武器や馬を自分で購入出来たことです。それによって貴族が兵士となってポリスを守りました。同時にポリスでの政治的な役職も貴族が独占し、貴族がポリスを支配しました。

やがてポリスの間で商業が活発になり、そのうち人口も増加します。ですがその分貧しい者も多くなります。このような貧しい者が新しい土地を持てるようにすることも植民活動の目的の一つでした。

さらに紀元前7世紀(前600年代)より貨幣(金属のお金)も使われるようになりました。第2章で、貨幣はアッシリアから分かれた小アジアのリディア王国で使われるようになった、と述べました(第2章「『最初の世界帝国』アケメネス朝-アケメネス朝の下での商人の活躍」を参照)。ギリシアのポリスでも貨幣を導入しました。

しかし、お金というのはいつの時代でも貧富の差を生みます。お金をうまく集められる人と、取り残されて貧しくなる人が現れます。

その中で、商業活動により富を得た平民も増えました。この富裕層(お金持ち)の平民が武器を持てるようになりました。

平民が武器を持ち、政治参加を訴える

武器を持てる平民が現れた理由の一つは、武器が軽く、価格が安くなったことです。また戦いの方法、つまり戦法が変わったことも理由としてあります。

かつては貴族が馬に乗って戦う戦法が普通でした。また戦いを得意とする貴族が槍や剣を持って一対一で戦う、一騎打ちという戦いが行われていました。

それが紀元前7世紀(前600年代)より戦法が変わりました。

重い楯や兜を身に着けた兵士が一列に並び、槍を持って戦隊を組む、重装歩兵密集隊(ファランクス)がメインの戦法になりました。楯の形は直径1mほどの円形で、楯の右半分で自分の体を覆い、左半分で左側の兵士の体を守りました。楯と楯の間から長さ2~3メートル(m)の槍を突き出して、列をなして進みます。列は何列にも重なっています。

このような集団戦法を取ることによって、ポリスの市民が、自分がポリスを守る一員なのだという集団としての意識、市民意識がより芽生えていきます。

しかし、武器を持つ平民たちは、ポリスを支配できるのはなぜ貴族だけなのか、自分たちはなぜ貴族の支配を受けなければならないのか、と疑問を持つようになります。

そこで富裕な平民たちは、自分たちが政治や裁判に参加することが出来ないことに不満を持つようになります。

平民たちがどのように政治に参加するようになったのかについては、アテネの歴史で詳しく追っていきます。

この記事では、ポリスが発展していく様子を見ました。同じギリシア人意識を持っていたこと、植民活動を広げたこと、そしてポリスを守る戦い方(戦法)が変わっていったことがポイントです。

次の記事では、代表的な2つのポリスの1つ、スパルタについて見ていきます。

この記事のまとめ

  • ポリスはそれぞれ独立した国家だった。自分たちの守護神を祀り、共通の宗教を持っていた。また他のポリスと戦争を常に行った
  • しかし、ギリシア語を話しているという意識がポリス間の仲間意識を生んだ。ギリシア人は自分たちをヘレネス(英雄ヘレーンの子孫)と呼び、他の民族をバルバロイ(聞き苦しい言葉を話す者)と呼んで、特別な民という意識を持った
  • オリンピア競技デルフォイのアポロンの神託もギリシア人の仲間意識を育んだ
  • 代表的な植民市には、南フランスのマッサリア(マルセイユ)、南イタリアのネアポリス(ナポリ)、タレントゥム、シチリア島のシラクサビザンティオン(イスタンブル、現トルコ共和国)がある
  • ポリスの初めは貴族が兵士としてポリスを守った。ポリスでの政治的な役職も貴族が独占し、貴族がポリスを支配した
  • やがて武器が軽く、価格が安くなり、富裕な平民も武器を購入出来るようになった
  • 戦法が一騎打ちや騎兵によるものから重装歩兵密集隊(ファランクス)が主流となった、それにつれて戦闘で武器を持つ平民の役割が増した
  • 武器を持つ、富裕な平民たちは、自分たちが政治や裁判に参加することが出来ないことに不満を持ち始めた

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