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ペルシア戦争

(第3章10/15)

今回は古代ギリシアの10回目(全15回)。前回はソロンの改革の後の僭主政治とクレイステネスの改革について学びました。

この記事では、政治の発展の問題から少し離れて、ギリシアのポリスを襲った試練、アケメネス朝との戦いであるペルシア戦争について解説します。

3.4.4.3 ペルシア戦争

アケメネス朝は紀元前546年に王キュロス2世(在位、紀元前559~530)が小アジア(現在のトルコ共和国)のリディア王国を滅ぼします。アケメネス朝は第2章の最後(第2章「『最初の世界帝国』アケメネス朝」を参照)に扱った、最初の世界帝国でした。

小アジアにはギリシア人の中のイオニア人の地域があります。ミレトスのポリスが代表です。アケメネス朝はこのイオニア人たちのポリスを支配するようになります。

イオニア人は1回目の民族移動で移動したギリシア人でした。この時のギリシア人(アカイア人)は後に第2回目の民族移動で移動したドーリア人に押されて、イオニア人アイオリス人に分かれました。イオニア人についてはこの章の2回目4回目の記事で出てきました。

開戦の原因

アケメネス朝はイオニア人のポリスに税金を納めることと兵士を差し出すことを求めます。イオニア人は最初は従いますが、やがて税金や兵士を出す要求が強くなってくると、不満を持ち始めます。そこで紀元前499年にイオニア人は反乱を起こします。

反乱はすぐに鎮圧されましたが、ここでアテネなどのポリスがイオニア人のポリスに援軍を送り、守ろうとしました。アケメネス朝のダレイオス1世(在位、紀元前522~486)はこのようなアテネなどのポリスの行動を受けて、ギリシアを征服することを目指します。これ以後、アケメネス朝は3回ギリシアに遠征します。これらをまとめてペルシア戦争(紀元前500~449)と言います。

実はこの戦いでは、海軍が大きな活躍をします。アケメネス朝の側の海軍はほぼフェニキア人の海軍でした。第2章で、フェニキア人は海を使った商業活動を活発に行い、独自の海軍も持っていた、とありました(第2章「東地中海のセム語系民族-陸のアラム人と海のフェニキア人」を参照)。またフェニキア人はギリシア人と同じく、地中海の沿岸に多くの植民市を建設しました。ですから、ペルシア戦争はギリシア人とフェニキア人の、地中海のお互いの勢力を争った戦いでもありました。

では、実際の戦い、3回の遠征を追ってみましょう。

1,2回目の遠征

最初の遠征は嵐のために中止となりました。紀元前490年に2回目の遠征が行われました。アケメネス朝の軍はアテネに近いマラトンに上陸します。アテネは将軍ミルティアデスの指揮のもとに1万の重装歩兵軍で、2倍の兵力のアケメネス朝の軍に立ち向かい、撃退します。このマラトンの戦いは市民によって構成される重装歩兵軍の実力を示した戦いとして、歴史に残る戦闘です。

この時、マラトンでの勝利をアテネに走って伝えた兵(伝令)についての伝説が、現在のマラソン競技につながったと言われています。マラソンは42.195キロメートル(km)を走る競技です。

この42.195kmがマラトンからアテネの距離かと思いますが、実際の距離は36.75キロメートルでした(1927年の測定)。マラソンが42.195kmと決められたのは、第4回のロンドンオリンピック以降のことです。

最大の決戦、3回目の遠征

話は戻って、ペルシア戦争の3回目の遠征は紀元前480年に、ダレイオスの次の王クセルクセス1世(在位、紀元前486~465)によって行われました。今回はクセルクセス王が自ら出陣しました。兵力はその当時で最大の20万人と言われています。

ギリシア側はアテネとスパルタを中心にギリシア連合軍が組織されました。ギリシア軍はまずアルテミシオンの海戦で敗れます。さらに陸上ではテルモピレーの戦いでスパルタの軍が全滅し、苦戦を強いられました。

この第3回目の遠征の勝敗を決めたのは、アテネの西側のサラミス湾で戦われたサラミスの海戦です。この海戦はアテネのテミストクレスが指揮しました。

テミストクレスは市民全員を船で避難させ、狭いサラミス湾で待機します。そこにアケメネス朝の大艦隊が襲います。しかし、狭い海峡の中で大艦隊は身動きが取れず、そこにギリシアの軍艦が突撃します。この頃の海戦、船での戦いは、相手の軍艦の横腹よこばらに突撃して船に穴を開け、相手の船を沈める戦法が採られていました。

サラミスの海戦はギリシア側の大勝利に終わりました。この後、翌年の紀元前479年にはプラタイアの戦いで、スパルタの将軍パウサニアス率いるギリシア連合軍がアケメネス朝の軍に勝利します。小アジアの戦闘でもギリシア連合軍は勝利を納め、これによりギリシア軍の勝利が決定的となりました。この勝利により、小アジアのイオニア人のポリスの独立が保たれました。

実際にペルシア戦争の最終的な決着が着いたのは、紀元前449年のカリアスの和約です。このカリアスの和約によって小アジアでのギリシアとアケメネス朝の境界線が決められ、双方がお互いの領土に侵入しないことを約束しました。

ところで、サラミスの海戦の勝利については、次のような話があります。

海戦に勝利した理由は?

クセルクセス王の遠征の話を聞いたアテネでは、デルフォイの神託(神のお告げ)に頼り、戦闘の方法を尋ねました。この時「木のとりでで戦え」というお告げを受けます。テミストクレスはこの木の砦のことを船のことを言っている、と解釈し、市民全員を船で避難させる作戦を提案します。

しかし、このエピソードの背景には、テミストクレスの巧みな戦略がありました。

第3回の遠征の3年前の紀元前483年に、ラウレイオン銀山で新たな銀の鉱脈が発見されました。銀山では、鉱脈をたどって掘り進めていけば新たな銀が採れます。それから、この新たな銀をどう使うかが話し合われました。一部の者は銀を市民に平等に分配することを提案しました。

この時、テミストクレスは新たに軍艦を作るべきだ、と主張しました。この主張は通り、新たに200隻もの艦隊が作られます。この軍艦が、サラミスの海戦で活躍しました。

この時に活躍したギリシアの軍艦は三段櫂船さんだんかいせんと言います。櫂船というのは、船の漕ぎ手がオールを使って進める船のことを指します。漕ぎ手は左右に1列ずつ並んでオールを漕ぎます。三段櫂船とはこの漕ぎ手の列が上下に3つある船を指します。

なぜ貧しい平民も政治に参加できるようになったのか?

ところで、ペルシア戦争でこの三段櫂船が活躍したことが、下層市民(貧しい平民)の政治参加を後押ししました。

ではこれまでポリスで政治に参加出来たのは、どのような人たちだったでしょうか?それは武器を自分で購入できる貴族や財産のある平民でした。

しかし、三段櫂船の漕ぎ手になるには武器は必要ありません。体一つで出来ます。とはいえ、この武器を持たない市民がサラミスの海戦で活躍しました。

このように、ギリシアの勝利に武器を持たない下層市民が重要な役割を果たしました。そこから下層市民の発言力が高まります。自分たちも戦いの勝利に役に立ったのだから政治に参加させて欲しい、と下層市民たちは願いました。この市民の願いが少しずつ受け入れられて、アテネの民主政は完成に向かいます。

さてアケメネス朝の3回目の遠征軍への勝利により、ギリシア連合軍の勝利はほぼ確定しました。ですが、未だにアケメネス朝はギリシア征服への動きを見せています。アケメネス朝の圧力に立ち向かうために、ギリシアのポリスは結束を固める必要がありました。

そこでアテネを中心として、紀元前478年に対ペルシア海上同盟が結ばれました。この同盟は本部がエーゲ海中心のアポロン神殿のあるデロス島に置かれたので、デロス同盟と呼ばれます。しかしこの同盟はやがて、アテネが他のポリスを支配する手段となってしまいます。

この記事では、古代ギリシアの歴史の転換点となったペルシア戦争について解説しました。この戦争の勝利によって、アテネの民主政が完成へと向かいます。逆にその後のデロス同盟は、アテネが他のポリスを支配することにつながります。

次の記事では、ペルシア戦争後のアテネの民主政の完成について見ていきます。

この記事のまとめ

  • 紀元前499年にイオニア人は小アジアを支配していたアケメネス朝に反乱を起こす。この時アテネなどのポリスが援軍を送っていたため、アケメネス朝の王ダレイオス1世はギリシア征服を目指す。これ以後3度のギリシアへの遠征をまとめてペルシア戦争(紀元前500~449)という
  • アケメネス朝の側の海軍はほぼフェニキア人の海軍だった。そのため、ペルシア戦争はギリシア人とフェニキア人の、地中海のお互いの勢力を争った戦いでもあった
  • 2回目の遠征の紀元前490年のマラトンの戦いで、アテネは将軍ミルティアデスの指揮のもとに1万の重装歩兵軍で、2倍の兵力のアケメネス朝の軍に立ち向かい、撃退した
  • 3回目の遠征は紀元前480年、アケメネス朝の王クセルクセス1世が自ら出陣し、行われた。兵力20万人と言われる
  • 3回目の遠征では、テルモピレーの戦いでスパルタの軍が全滅し、苦戦を強いられた
  • アテネ西側のサラミス湾で戦われたサラミスの海戦では、アテネのテミストクレスが指揮し、大勝利を納めた
  • 紀元前479年のプラタイアの戦いでも、スパルタの将軍パウサニアス率いるギリシア連合軍が勝利し、ペルシア戦争の勝利は決定的となった
  • 紀元前449年のカリアスの和約によって小アジアでのギリシアとアケメネス朝の境界線が決められ、ペルシア戦争は終結した
  • サラミスの海戦では三段櫂船が使われた、この時武器を持たない下層市民も櫂船の漕ぎ手として活躍した
  • サラミスの海戦で下層市民も戦闘に参加したことから、下層市民が政治参加を願う訴えが強くなった。これによりアテネの民主政は完成へと向かう
  • アケメネス朝の圧力に対抗するため、紀元前478年に対ペルシア海上同盟(デロス同盟)が結ばれた。デロス同盟はやがてアテネが他のポリスを支配するために用いられるようになる

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