アテネ民主政の完成
(第3章11/15)
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今回は古代ギリシアの11回目(全15回)。前回はギリシアの歴史の転換点となったペルシア戦争について解説しました。
この記事では、ペルシア戦争後のアテネの民主政の完成について説明します。これからの数回はアテネのペリクレスというワンマン支配者が重要人物です。
3.4.4.4 アテネ民主政の完成
前の記事で、サラミスの海戦で活躍した、三段櫂船の漕ぎ手だったアテネの下層市民(貧しい平民)の発言力が増した、と述べました。これを受けて、アテネでは民主政が一気に推し進められます。
寡頭派と民主派の争い
アテネの貴族の間では、貴族や富裕な市民による支配を望む者たちも多くいました。そこで寡頭派と民主派という2つの政治的な派閥(グループ)に分かれます。
ここで寡頭派、という耳慣れない言葉が出てきました。世界史では寡頭制、という言葉が良く使われます。
寡頭制の「寡」という字は訓読みで「寡ない(すくない)」と読みます。ちなみに「寡」の付く言葉としては、小説家が作品を出すペースが遅い場合は「寡作な人」と言われます。また口数が少ない人は「寡黙な人」です。
つまり寡頭、とは「頭が少ない」という意味です。寡頭制とは一部の貴族や富裕な人、選ばれた人によって政治が行われる体制を指します。
さて、アテネの貴族間の寡頭派と民主派の争いですが、紀元前480年から460年頃にかけては寡頭派のキモンが軍事的な遠征の実績を買われて、政治の主導権を握っていました。
この章の8回目の記事でアレオパゴス評議会という機関が出てきました。これはアルコン(役人)の経験者がメンバーで、アルコンと民会、そして裁判を監督するのが役割でした。この時代でも未だアレオパゴス評議会の発言力は強く、貴族たちの政治力の後ろ盾でした。
ところが紀元前461年、民主派のエフィアルテスとペリクレスはキモンがアテネを留守にする隙に政治を一気に変えようと行動を起こし、政治の実権をアレオパゴス評議会から奪います。これより政治、裁判の実権は民会、五百人評議会、民衆裁判所に与えられました。これによってアテネの民主政は完成します。
これから民主派の行った改革を具体的に見ていきますが、民会などの政治の機関に注目して説明をしていきます。まずは民会から、五百人評議会、民衆裁判所、そしてアルコンなどの国家の役人の順に説明をします。
アテネの政治の最高機関、民会
まずは民会についてですが、これ以降民会がアテネの最高機関となります。女性や奴隷は民会に参加出来ませんでしたが、成年の男子市民であれば誰でも出席出来ました。市民であれば誰もが演壇で意見を述べることが出来ました。民会の多数決で可決された提案は民会の決議(決められたこと)となり、これはアテネという国家の意思だとみなされました。
実際のところは民会で決定する問題は先に五百人評議会で話し合われました。最初に五百人評議会の中で民会にかける議題を決めてから民会で賛成、反対を問う、という形で政治的な議題が処理されました。さらに五百人評議会は民会で決定された政策を実行する行政機関の役割も果たしました。五百人評議会は2つ前(9回目)の記事で出てきました。クレイステネスの改革の際に作られた機関でした。
ところで、先ほど民会が国家の意思である、と述べました。この国家の意思とはなんでしょうか。またどのようにして国家の意思である、と言えるのでしょうか。
国家の意思とは?主権とは?
国家には国家として対処する、取り組まなくてはならない問題があります。国内の政治はどうするのか、集めた税金はどのように割り振るか(予算の割り当て)、教育や保育、医療の費用は誰が負担するのか(福祉)、といった問題です。加えてどの国と関わるのか、外国が攻めてきた場合にどうするのか、といった対外的な(外国との関係での)問題もあります。
国家はこのような問題をどう解決するのか、国家として方針を決めなくてはなりません。このような決められた方針は国家の意思と言えます。意思とは何かをしようとする気持ちを指します。
また誰が国家の問題を決めるのか、意思決定をするのか、という権利を主権と言います。先ほど民主政の完成の後、民会がアテネの最高機関となった、と述べました。また民会の決議が国家の意思となった、とも申しました。
これは主権という言葉を用いるならば、民会に主権がある、ということです。加えて民会に参加しているアテネ市民がその主権を担っている、とも言えます。
多数決で国家の意思は決まるのか?
ならば国家の主権を担っている市民全員が納得するように意思決定がされなければなりません。実を言うと、多数決で決めたとしても意思決定としては不十分です。例えばある決議が60%の賛成を得て決められたとします。その時残り40%の反対意見はどうなるのでしょうか?反対意見が切り捨てられて、それで国家の意思、主権が実現したと言えるでしょうか?
現在の民主主義のもとでは、少数意見(切り捨てられる意見)を尊重する、という考え方があります。そこには少数意見もある程度受け入れなければ全員の意思とはならない、それで国民主権とはならない、という考えがあります。
同時に少数意見は国の行くべき方向を誤らせない、国家が暴走するブレーキの役割を果たします。これはアテネの歴史の続くところで出てきますが、民主主義は一つの意見に急激に傾いてしまう、という危険性もあります。その時に一瞬立ち止まって少数意見を聞くことで、一つの意見に偏ることを防ぐことが出来ます。
さて、歴史から公民のお話になってしまいました。歴史と公民は深く関わりがあります。なぜならば、現在の政治や経済の仕組みがどのように作られたのかは、歴史を通して知ることが出来るからです。
民衆裁判所と役人の選び方
ところで、まだ説明していないアテネの機関がありました。次に民衆裁判所について説明します。
民衆裁判所はエフィアルテスとペリクレスの改革によって作られた、裁判のための機関です。この裁判所は任期1年の6000人の陪審員によって構成されます。陪審員は市民の中から抽選によって選ばれました。
陪審員とは、一般の市民から選ばれ、裁判について議論、検討し、判決を下す役割を持つ者のことです。現在の日本では裁判員制度という制度があります。2009年より始まりました。日本の裁判員制度は殺人などの重大な犯罪について、有罪か無罪かを判断し、有罪の場合には法律に照らしてどのような刑罰を課すのかを決めます。
最後にアルコンなどのアテネの国家の役人についてです。
この改革の後に、役人は市民の中から抽選で選ばれるようになりました。それぞれ任期は1年で、同じ役職には何人かの者が就き、一人の者に権力が集中しないようにしました。
将軍として権力を握ったペリクレス
ただし、将軍という役職だけは民会の選挙で選ばれました。そして、何年もの間その役職に就けました。
この役人の役職の改革によって、役人の地位は低下しました。逆に将軍の地位は一気に上がりました。なぜなら、将軍だけが市民から選ばれた役職だと言えるからです。
これは次の記事でも扱いますが、ペリクレスは15年もの間将軍の地位に就きます。それだけアテネの市民に人気がありました。ペリクレスはその人気を背景にして様々な改革を行いました。
この記事では、アテネの民主政の完成した時期を見ました。民主化に向かったのは、武器を持たない平民も、ペルシア戦争の海戦で船の漕ぎ手として戦闘に参加したことがありました。
次の記事では、アテネを中心にポリスの間で結ばれたデロス同盟について解説します。デロス同盟は未だに強いアケメネス朝の圧力に備えるために結ばれました。ですが、やがてアテネが他のポリスを支配する手段となってしまいます。
この記事のまとめ
- アテネの貴族の間では、寡頭派と民主派という2つの政治的な派閥に分かれて争った
- 紀元前480年から460年頃にかけては寡頭派のキモンが政治の主導権を握っていた
- 紀元前461年、民主派のエフィアルテスとペリクレスはキモンがアテネを留守にする隙にクーデター起こし、政治の実権をアレオパゴス評議会から奪う。これより政治、裁判の実権は民会、五百人評議会、民衆裁判所に移った(アテネの民主政の完成)
- 民会は成年の男子市民ならば誰でも出席出来、アテネの最高機関となった
- 民会で決定する問題は先に五百人評議会で話し合われ、それから民会で賛成、反対を問うた。また五百人評議会は行政機関の役割も持った
- 民衆裁判所はエフィアルテスとペリクレスの改革によって作られた、裁判のための機関である
- 民衆裁判所は任期1年の、市民の中から抽選によって選ばれた6000人の陪審員によって構成された。
- アルコンなどの役人は市民の中から抽選で選ばれるようになった。任期は1年で、同じ役職には何人かの者が就き、一人の者に権力が集中しないようにした
- 将軍は民会の選挙で選ばれた。そして、何年もの間その役職に就くことが出来た
- ペリクレスは15年もの間将軍の地位に就いた。ペリクレスは市民の人気を背景にして様々な改革を行った