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古代ギリシア:ペイシストラトスの僭主政治とクレイステネスの改革

(第3章9/15)

今回は古代ギリシアの9回目(全15回)。前回はアテネの発展の歴史の最初の部分を見ました。この中ではドラコンの成文法とソロンの改革がポイントです。

この記事ではその後の時代、ペイシストラトスの僭主政治とクレイステネスの改革について見ていきます。クレイステネスの改革によってアテネの民主政治の体制はほぼ固まりますが、下層市民(貧しい平民)の政治参加はまだ制限されました。

3.4.4.2 ペイシストラトスの僭主政治とクレイステネスの改革

前回の記事の最後に、ソロンの改革は効果を上げず、貴族と平民との対立は解消せず、貴族同士の争いも生まれた、とお伝えしました。

僭主政治とは?

この貴族同士の争いを制し、権力の座に就いたものがいます。僭主せんしゅと呼ばれたペイシストラトスです。彼は山あいの貧しい農民たちを支持者として権力をつかみ取りました。僭主というのは非合法に(法に反して)権力を手にした者を指します。しかし、ペイシストラトスによってアテネの政治が安定したことは事実です。ペイシストラトスとその子たちにより30年以上アテネの政治は安定しました。

ペイシストラトスの統治の最大の成果は、貧しい農民に土地を分配して、農民たちが自立出来るようにしたことです。またラウレイオン銀山を開発して、その資金を様々な公共事業に充てました。その公共事業によって市民が集まる神殿を整備し、宗教的な祭りを盛んに行いました。これによりアテネ市民の市民としての意識が育まれ、その後の政治改革への土台となりました。

ペイシストラトスの息子のヒッピアスヒッパルコスの時代も最初は安定していました。しかし、紀元前514年にヒッパルコスが暗殺されると、ヒッピアスは暴君となります。これにより安定していたと思われた僭主政治は終わりました。

暴君となった僭主に反対する勢力はスパルタの助けも借りて、紀元前510年に僭主ヒッピアスを追放します。

クレイステネスの改革

この後紀元前508年に貴族のクレイステネスが改革に取り組みます。クレイステネスは暴政に変わった僭主政治に反対したことで実績を上げました。また彼はアルコンなどの役職には就かずに、民会の一員として改革を行ったようです。

クレイステネスの改革のいちばん目立った政策は、部族制度を改めたことです。これまでの4部族制10部族制に改めました。

これはただ部族の数を増やしただけではありません。古い4部族は主に血縁、血のつながりによっていました。貴族たちはこの血縁で繋がっている部族によって分かれ、部族を政治的な基盤、土台としていました。

それに代わって新しい10部族は地域ごとに部族を分けました。こうすることで貴族たちの血縁的なつながりを解消しようとしたのです。

10部族を作る方法

この部族を10個に分ける方法は少し複雑です。順を追って説明します。

まずアテナイの領土をデーモスという地区ごとに分けます。実際にアテネのデーモスの数は139に及びました。

次にこのデーモスを合計30のトリッテュスという地域に組み入れます。それぞれのトリッテュスに入るデーモスの数はそれぞれのトリッテュスによって違います。

30のトリッテュスは次のように分けられました。まずアテネの領土を海岸、市域、内陸の3つの地域に分けます。それぞれの地域をさらに10個に分けます。つまり海岸、市域、内陸の地域にトリッテュスが10ずつあります。これで合計30のトリッテュスが出来ます。この中に139のデーモスを組み入れます。

最後に海岸、市域、内陸の3つの地域からトリッテュスを1つずつ組み合わせます。3つのトリッテュスで1つの部族です。この組は全部で10出来ます。これで10部族の完成です。

さらにこの10部族を土台として、五百人評議会という機関が作られました。その名の通り500人によって構成される組織ですが、その500人は、1部族から50人を選び、10部族で500人としました。この五百人評議会は、民会に先立って民会で決定する問題をあらかじめ話し合う機関です。また行政機関としての役割も果たしました。

もう一つの目玉、陶片追放(オストラシズム)

またクレイステネスの改革では、陶片追放(オストラシズム)という制度も設けました。これは前の時代に僭主のヒッピアスが暴君になったことから生まれた制度です。僭主となる危険のある人物をアテネから追放することが狙いでした。

陶片追放の方法ですが、市民が僭主になりそうな人物の名前を陶器のかけらに書きます。6000票以上獲得した人物の中で、最も多く票を獲得した者が(または6000票以上獲得した者全員が)10年間アテネから追放されます。ただし、追放された人物の市民権や財産は奪われませんでした。

ちなみに、この危険人物を追放する投票の方式を陶片追放(オストラシズム)と呼んだのは、陶器のかけらを意味するオストラコンから来ています。

この記事では、ソロンの改革の後の時代のアテネについて、ペイシストラトスとその子たちの僭主政治とクレイステネスの改革について説明しました。僭主政治によってアテネは豊かになりましたが、その後僭主は暴君となり、民主的な改革が必要となりました。

次の記事では、政治の発展の問題から少し離れて、ギリシアのポリスを襲った試練、アケメネス朝との戦いであるペルシア戦争について解説します。

この記事のまとめ

  • 貴族同士の争いを制し、僭主ペイシストラトスが権力の座に就いた。彼は山あいの貧しい農民たちを支持者として、権力をつかみ取った。僭主というのは非合法に権力を手にした者をいう
  • ペイシストラトスは、貧しい農民に土地を分配して、農民たちが自立出来るようにした。またラウレイオン銀山を開発して、その資金で様々な公共事業を行った
  • ペイシストラトスの息子たちの政治は最初は安定していたが、やがて息子のヒッピアスは暴君となる。反対する勢力により、紀元前510年僭主ヒッピアスは追放された
  • 紀元前508年に貴族のクレイステネスが改革に取り組む。彼はアルコンなどの役職には就かず、民会の一員として改革を行った
  • クレイステネスはこれまでの血縁による結びつきの強かった4部族制を、地域ごとの集まりである10部族制に改めた
  • クレイステネスは10部族を土台として、五百人評議会という機関を作った。1部族から50人を選び、10部族で500人とした。五百人評議会は、民会で決定する問題を先に話し合う機関であり、また行政機関としての役割も果たした
  • クレイステネスは僭主となる危険のある人物を追放するために、陶片追放(オストラシズム)の制度を設けた

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