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戦車戦術を用いたヒッタイト人の襲来、カッシートとミタンニ

(第2章5/15)

今回は古代オリエント文明の5回目(全15回)です。前回は、アムル人が建てた古バビロニア王国について説明しました。特に第6代の王ハンムラビの時代に作られたハンムラビ法典について説明しました。

この記事では、戦車戦術を使ってメソポタミアに侵入したヒッタイト人とそれに続く王国について説明します。ヒッタイト人は語族で分けた場合には、インド=ヨーロッパ語族に属します。

2.2.5 戦車戦術を用いたヒッタイト人の襲来

紀元前2000年頃より、南ロシア(現在のウクライナの辺り)や中央アジアを起源とする、インド=ヨーロッパ語系民族が南に移動を開始します。一部は小アジア(現在のトルコ共和国)からシリア、メソポタミアへ移動しました。他の一部はインド北部へと移動しました。メソポタミアに移動した民族はヒッタイト人、インドに移動した民族はアーリヤ人と呼ばれます。

この章の2回目の記事で、語族という民族の分け方があることを学びました。主に3つに分けられましたが、その中の一つにインド=ヨーロッパ語族がありました。

インド=ヨーロッパ語族、という言葉の源

インド=ヨーロッパ語族という言葉にはヨーロッパの歴史家や考古学者の考えが反映されています。

19世紀から20世紀(西暦1800~1900年代)にかけてインドを植民地として支配していたイギリス人たちは、インド北部のアーリヤ人の話す言語と、ヨーロッパの諸々もろもろの(いくつかの)言語が似ていることに気付きます。そこでインド北部に定住したアーリヤ人とヨーロッパの民族の起源が同じではないか、と考えるようになりました。

インド=ヨーロッパ語族という名前にはこのような背景があります。ですから、そのような民族、語族のまとめ方が正しいのかは、これからも議論されなければなりません。

ですが、メソポタミアに侵入したヒッタイト人と、インド北部に移動したアーリヤ人とは共通点があります。

それは、馬に引かせる戦車を使う民族だった、というところです。そこで、中央アジアに広がる民族の間で戦車戦術が広まり、その民族が集団となって南に攻め込んだことは想像出来ます。

戦車と鉄製の武器が強さの秘密

ところでヒッタイト人は、紀元前19世紀(前1800年代)に小アジアのアナトリア高原に移動しました。ヒッタイト人はここで先住民たちを支配し、ヒッタイト王国を建てました。王国は紀元前1650年頃にアナトリア高原の中部のハットゥシャを都としました。さらに紀元前1600年頃には古バビロニア王国を滅ぼします

古バビロニア王国が滅びた後のメソポタミアでは、カッシートとミタンニ王国という2つの勢力がメソポタミアを統治します。これはこの次のポイントで説明します。

さて現在では、トルコ共和国の首都アンカラの東のボアズキョイの遺跡が、ヒッタイト王国の都ハットゥシャの跡として見ることが出来ます。ボアズキョイの遺跡は1905年よりドイツのヴィンクラーによって発掘されました。

ヒッタイト人は戦車に加えて、鉄製の武器を用いて強大な軍を作りました。第1章で、馬による戦車と鉄製の武器を使用した民族が帝国を作った、と述べました(第1章「帝国の始まり-鉄と戦車」を参照)、ヒッタイト人は最初の帝国を作った民族と言えます。

ヒッタイト人は小アジアからシリアを征服しようとします。ところで紀元前1700年頃、シリア方面からヒクソスと呼ばれる民族がエジプトに侵入し、エジプトの王朝(中王国)を滅ぼします。このヒクソスはヒッタイト人がシリアを襲うにつれて、エジプトへと移動した、と言われています。ヒクソスについては古代エジプトのところでも説明します(「中王国と新王国-古代エジプト3」を参照)。

エジプトとも戦う

ヒッタイト王国の全盛期は紀元前14世紀(前1300年代)でした。紀元前1300年頃に、エジプト王朝の軍がシリアに北上したために、衝突が起きます。

その時のエジプトの王はラメセス2世といって、新王国(第19王朝)の王でした。このラメセス2世とヒッタイト王国はカデシュの戦いで、シリアの支配を巡って争います。この戦いの後、エジプトとヒッタイト王国の間で講和が結ばれました。講和とは戦争を解決するために両国で話し合うことです。

この時の講和は世界史上初めての国際条約とされています。条約とは国と国の間、または多くの国の間で結ぶ約束のことです。

ヒッタイト王国は西暦前1200年頃、東地中海全体を襲った民族大移動の激変の中で滅びました

ヒッタイト王国はシリア、メソポタミアで最初の、強大な軍事力を持った帝国として、力を誇った王国でした。

これまで、インド=ヨーロッパ語族に属し、戦車戦術と鉄製の武器によって小アジア、シリアを制覇したヒッタイト王国について説明しました。全盛期にエジプトと戦い、講和を結んだ(カデシュの戦い)ことも説明しました。

次に、古バビロニア王国が滅びた後にメソポタミアを支配したカッシートととミタンニについて、続けて西暦前1200年前後に東地中海を襲った、民族大移動とその結果について説明します。

先ほど、ヒッタイト人が古バビロニア王国を滅ぼした、と書きましたが、その後の時代についてです。

2.2.6 カッシートとミタンニ

ここ数回にわたって、古代のメソポタミア(現在のイラク)とその周辺の地域の歴史を学んでいます。周辺の地域には、地中海に向かってシリア、小アジア、そしてシリアの南のパレスチナ(現在のレバノン、イスラエル、パレスチナ自治区)があります。これらの国々にアラビア半島とイランを合わせて中東と呼ばれます。

前のポイントの振り返りですが、紀元前2000年から1000年にかけて、この地域に大きな変動が2つありました。

1つは紀元前1800~1600年頃に、インド=ヨーロッパ語族の民族が小アジアからシリア、メソポタミアに侵攻したことです。この民族は戦車戦術と鉄製の武器を用いたヒッタイト人でした。ヒッタイト人は紀元前1600年頃にメソポタミアの古バビロニア王国を滅ぼしました。

もう一つは紀元前1200年頃に起こった民族大移動による大混乱です。この時西側から東地中海へと侵入した民族をまとめて「海の民」と呼びます。この大移動にはいくつかの民族が関わっていたようです。この「海の民」がどの民族を起源としているのか、どこから訪れたのかについては、未だに不明です。

この紀元前1600年から1200年の間の400年間にメソポタミアを支配した2つの王国がありました。これがカッシートとミタンニ王国です。

カッシート人の王国はバビロン第3王朝といい、メソポタミア南部を支配しました。またミタンニ王国はメソポタミア北部からシリアにかけて支配しました。ミタンニ王国の人口の大部分はフルリ人という民族でした。フルリ人については未だ不明な部分が多く残されています。

ちなみに、カッシートとミタンニ王国を建てた民族は、以前にはどちらもインド=ヨーロッパ語族に属すると言われていましたが、最近では不明だと言われています。

民族大移動の混乱の後に

紀元前1200年頃に民族大移動の混乱が押し寄せます。東地中海へと侵入した民族は「海の民」と呼ばれることは、先ほど述べました。

この混乱を経て、東地中海地方(シリアとパレスチナ)には、セム語系の民族がいくつか勢力を伸ばします。その民族の代表は3つあります。アラム人とフェニキア人、そしてヘブライ人(イスラエル人)です。

この記事では、紀元前1600年頃に古バビロニア王国が滅びた後のメソポタミアの歴史を説明しました。メソポタミア南部はカッシートが、北部とシリアの一部はミタンニ王国が支配しました。

の記事では、紀元前1200年頃に起きた民族大移動の混乱の後の東地中海について解説します。3つのセム語系民族が勢力を伸ばしました。まずはその中の2つ、アラム人とフェニキア人について説明します。

この記事のまとめ

  • 紀元前19世紀にインド=ヨーロッパ語族ヒッタイト人が小アジアのアナトリア高原に移動、ヒッタイト王国を建てる
  • ヒッタイト人は戦車戦法と鉄製の武器を用いて強大な軍を作った
  • 紀元前1600年頃に、ヒッタイト人はは古バビロニア王国を滅ぼす。その後カッシートとミタンニ王国がメソポタミアを統治する
  • 。紀元前1300年頃に、ヒッタイト人はシリアに北上したエジプト新王国の王ラメセス2世の軍と衝突(カデシュの戦い
  • 上の戦いの後、エジプトとヒッタイト王国の間で講和が結ばれる(歴史上最初の講和条約)
  • 紀元前1200年頃、ヒッタイト人は東地中海全体を襲った民族大移動によって滅びる
  • この紀元前1600年から1200年の間の400年間、カッシートとミタンニ王国がメソポタミアを支配する
  • カッシート人の王国はバビロン第3王朝といい、メソポタミア南部を支配
  • ミタンニ王国はメソポタミア北部からシリアにかけて支配。ミタンニ王国の大部分はフルリ人
  • 紀元前1200年頃に「海の民」と呼ばれる民族が東地中海に大移動し、オリエントを混乱させる
  • 「海の民」の混乱の後、セム語系の民族(アラム人、フェニキア人、ヘブライ人)が東地中海地方に勢力を伸ばす

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