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中王国と新王国-古代エジプト3

(第2章14/15)

今回は古代オリエント文明の14回目(全15回)、前回は古代エジプト王朝の3つの重要な時期の最初、古王国について説明しました。

この記事では、2つ目と3つ目の重要な時期である、中王国と新王国について説明します。

2.3.3 中王国と新王国-古代エジプト3

古代エジプトの歴代の王朝の中で、第3王朝から第6王朝を古王国と言いました。第6王朝の後、いったんエジプトは統一されない状態が続きます。

紀元前22世紀(前2100年代)に入ると、古王国の首都メンフィスよりもナイル川の上流、南側のテーベに起こった王家が再びエジプトを統一します。この時期の王朝は第11王朝と呼ばれます。

中王国はヒクソスによって滅びる

この第11王朝と次の第12王朝を中王国と呼びます。中王国の首都はテーベです。

前の記事でも出てきましたが、中王国より、古王国の時代から崇拝(神を拝むこと)されていた太陽神のラーに加えて、テーベの守護神のアモンが崇拝されるようになりました。中王国より太陽神ラーと守護神アモンが結びついた、アモン=ラーが崇拝されました。

中王国は紀元前1700年頃に、シリアより突如として移動した異民族のヒクソスがエジプトに侵入したために滅びます。ヒクソスはその後、100年余りエジプトを支配します。

この章の5回目の記事で、ヒクソスについて少し触れました。ヒクソスが移動を開始した頃は、インド=ヨーロッパ語族ヒッタイト人が小アジア(現在のトルコ共和国)とシリアに侵入した時期でした。ヒクソスはヒッタイト人の勢力に押されるようにして、エジプトへと移動したと考えられています。

ヒクソスは馬と戦車をエジプトへと伝えました。エジプトは周囲から独立して安定した王朝が続きましたが、ここで東地中海地方とメソポタミアを襲った波に飲まれることになりました。

さて、次の記事では、本サイト2つ目のコラム「歴史の通奏低音」を掲載します。タイトルは「民族の移動が歴史を作る」です。民族の移動は、全世界に国境線が引かれ、民族の移動がないように見える現在でも起こり得ます。私たちは民族の移動を前提として今の世界を見る必要があります。

話を元に戻しましょう。

ヒクソスがエジプトに侵入し、ヒクソスは100年ほどエジプトを支配しますが、第18王朝の時代に再び独立を回復し、エジプトが統一されます。紀元前16世紀(前1500年代)に興ったこの第18王朝から、第20王朝までの500年間を新王国時代と言います。

領土を拡大する新王国

この新王国時代には、これもこの章の5回目の記事で出ましたが、エジプト王朝は東地中海のシリアまで進出し、その支配をめぐってヒッタイト王国と争いました。エジプトは新王国時代に帝国のようになり、領土の拡大を目指しました。

さらに新王国の時代には、エジプトにいたヘブライ人が、預言者モーセの導きのもとにエジプトを脱出する「出エジプト」がありました。これはこの章の7回目の記事のヘブライ人の説明のところで出てきました。

新王国の領土の拡大への動きは、ヒクソスによって馬と戦車が伝わったことも原因として挙げられます。インド=ヨーロッパ語族によってもたらされた戦車戦術の衝撃は、エジプトにも影響を及ぼしたのです。

シリアに最初に進出したのは、エジプト最大の王と言われる第18王朝のトトメス3世(在位、紀元前1479?~1425?)でした。

特別な王、アメンホテプ4世

ところで、同じ第18王朝のアメンホテプ4世(在位、前1351?~1334?)はエジプトの歴代の王朝の中で特別な王です。

アメンホテプ4世はこれまで崇拝されていたアモン=ラーを中心とする多神教の信仰に代わって、神アトンのみを崇拝する一神教へと急激に信仰を変えようとしました。そこで首都をテーベよりもさらに南側のテル=エル=アマルナに移し、王は自分をイクナートン(「アトンを喜ばせる者」という意味)と呼びました。

結局この急激な信仰の改革はアメンホテプ4世の死によって元に戻されます。しかし、この時代はアマルナ時代と呼ばれ、注目されています。

アマルナ時代の首都、テル=エル=アマルナの遺跡より楔形文字くさびがたもじで書かれた、主にアッカド語で書かれた粘土板が多数見つかりました。これらの粘土板による文書はアマルナ文書と呼ばれています。この文書はこの時代のオリエント世界の国際関係(国と国の間の関係)を知るための貴重な資料となっています。

この後の第19王朝のラメセス2世(在位、紀元前1279?~1213?)はヒッタイト王国とシリアの支配をめぐって争いましたが、ヒッタイトと講和(戦争を終わらせるための話し合い)を行いました。これもこの章の6回目の記事で出てきましたね。

この章の5回目の記事から6回目の記事で出てきた、紀元前1200年頃に東地中海地方を襲った「海の民」による民族大移動の嵐はエジプトにも襲いました。この頃からエジプトの王朝の勢力は衰え始めます。その後にアッシリア、アケメネス朝の支配を受けます

最後には紀元前332年に、アレクサンドロス大王の征服により、古代エジプト王朝は終わりを迎えました。

この記事では、古代エジプト王朝の中の重要な3つの時代の後半の2つ、中王国と新王国について説明しました。

次の記事ではこの章の最後に、この古代オリエント文明の時代に何度も見られた民族大移動について考えます。

コラム「歴史の通奏低音」の1回目。タイトルは「民族の移動が歴史を作る」です。

この記事のまとめ

  • エジプトの第11王朝と次の第12王朝を中王国と呼ぶ。首都はテーベ
  • 。中王国以降、太陽神ラーと守護神アモンが結びついた、アモン=ラーが崇拝された
  • 中王国は紀元前1700年頃に、シリアより移動したヒクソスにより滅びる。ヒクソスは100年ほどエジプトを支配する
  • ヒクソスはエジプトに馬と戦車を伝えた
  • 第18王朝の時代に再び独立を回復し、紀元前16世紀に興った第18王朝から、第20王朝までの500年間を新王国時代と言う
  • 第18王朝のトトメス3世はシリアに初めてに進出した。新王国では領土を拡大する動きが見られた
  • 第18王朝のアメンホテプ4世は神アトンのみを崇拝する一神教を広めようとした。首都を南側のテル=エル=アマルナに移し、自分をイクナートンと呼んだ
  • テル=エル=アマルナの遺跡より、アッカド語で書かれた粘土板が多数見つかった。これらをアマルナ文書と呼ぶ。これはこの時代のオリエント世界の国際関係を知るための貴重な資料である
  • 第19王朝のラメセス2世は、ヒッタイト王国とシリアの支配をめぐり争ったが、ヒッタイトと講和した
  • 「海の民」による民族大移動の嵐はエジプトにも影響し、この頃からエジプトの王朝は衰えた

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