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強大な軍事帝国、アッシリアとその後のオリエント

(第2章9/15)

今回は古代オリエント文明の11回目(全17回)。前回はユダヤ人が始めた一神教のユダヤ教徒、一神教の基本的な教えについて学びました。

この記事では、強大な帝国、アッシリアについて説明します。アッシリアの起源はセム語系の民族となります。

2.2.10 強大な軍事帝国、アッシリアとその後のオリエント

2つ前の記事(第2章「苦難の民、ヘブライ人とユダヤ人」を参照)で、アッシリアはユダ王国の北側にあったイスラエル王国を滅ぼしたことを説明しました。

アッシリアの説明に入る前に、アッシリアが強大になる前の時代を振り返りましょう。

第1章の7つ目の記事に、紀元前1600年頃に古バビロニア王国がヒッタイト王国によって滅びた後、メソポタミアには2つの王国が生まれた、と説明しました。この2つの王国を憶えていますか?

その2つとは、カッシートとミタンニ王国でした。

アッシリアは一時期ミタンニ王国に従っていました。その後、ミタンニ王国から独立します。

カッシートとミタンニ王国は紀元前1200年頃に衰退に向かいました。理由は何だったでしょうか?

その理由は、東地中海地方に「海の民」などの民族の大移動があったからでした。アッシリアはこの混乱の後に勢力を伸ばします。

アッシリアの恐ろしさ

アッシリアの軍は強大で、その残虐さは広く知られています。紀元前8世紀後半(前750年以降)にはバビロニア(メソポタミア南部)からシリアにかけて征服し、紀元前7世紀(前600年代)に入るとエジプトも征服します。

このようにアッシリアは強大な軍事力で、これまでにない規模の帝国を築き上げました。アッシリア軍には歩兵、戦車隊、、騎兵(馬に乗る兵士)に加えて、土木工事を専門にする工兵隊もいたようです。また海軍を持ち、海軍の軍船は前に出てきたフェニキア人によって作られました。

ところで、帝国が広大な領土を統治するために必要な条件は軍事力の他にもう一つありました。これは第1章の帝国の解説のところで説明しました(第1章「広大な領土を統治する仕組み-官僚機構」を参照)。もう一つの条件とは何だったでしょうか?

アッシリアの官僚機構

その条件とは、広大な領土を統治する仕組み、つまり官僚機構でした。

アッシリアは広大な領土を州に分け、それぞれの州に総督を置いて地方を管理しました。「州」というのは日本で言えば「県」に当たるもので、地方の行政の単位です。

官僚機構については、帝国の政府は駅伝制を設けました。第1章でも説明しましたが(こちらを参照)、駅伝制とは一定の間隔で宿駅を置き、宿駅を通して情報が伝わるようにする統治の仕組みです。この駅伝制によって中央(首都の帝国政府)の指示が領土全体に行き渡るようにしました。また、駅伝制は中央の指示を地方に伝えるとともに、地方の情報を中央に集める役割も果たします。

アッシリアはこのような方法を用いて、中央集権の支配を固めました。この章の4回目、古バビロニア王国のところで説明しましたが、中央集権国家とすべての領土に王の支配が直接及ぶようにする国家のことでした。

領土を細かく州に分け、地方に役人を派遣し、さらに官僚を使って地方を監督する、このような官僚制度は後の帝国、アケメネス朝にも受け継がれました。

粘土板の図書館は貴重な資料の宝庫

アッシリアが最大の領土を築いたのは、アッシュル=バニパル王(在位、紀元前668~627)の時代です。

バニパル王は首都のニネヴェ図書館を作らせました。図書館にはオリエント地方のあらゆる資料が集められました。図書館、といっても集められたのは紙の本ではありません。図書館に集められたのは、楔形文字で書かれた粘土板の「文書」でした。

後にニネヴェの図書館の遺跡からは2万枚にのぼる粘土板の文書が発掘されました。これらの資料は当時のオリエント地方を知るために貴重なものです。バニバル王のおかげで、古代オリエント時代の様子を知ることが出来ています。

第1章の帝国の解説で、帝国の全盛期には帝国の首都が学問の中心となり、一流の学者たちが集まる、と書きました(第1章「帝国は文明を利用する」を参照)。アッシリアにもこれが当てはまります。このような帝国の遺産のおかげで、私たちは帝国が栄えていた当時の様子を知ることができます。またあらゆる国から貴重な文書が集められるため、帝国を中心とした当時の世界を知ることが出来ます。

4つの王国に分かれる

しかし、アッシリアの支配はあまりに厳しく、苛酷だったので、帝国は長続きしませんでした。最終的に、アッシリアの領土は4つの王国に分かれます。

7世紀の中頃(紀元前650年頃)にエジプト(第26王朝)が独立しました。続いてイランインド=ヨーロッパ語系メディア王国が、また小アジア(現在のトルコ共和国)に同じインド=ヨーロッパ語系のリディア王国が生まれました。

もう一つの王国は、カルデア人が建てた、バビロンを都とする新バビロニア王国(カルデア王国)です。

アッシリアの後に出来た4つの王国の中で新バビロニア王国がいちばん大きな勢力となりました。新バビロニア王国はメディアと同盟して紀元前612年にアッシリアを滅ぼしました。新バビロニア王国はバビロンのあるメソポタミアからシリア、パレスチナ(現在のイスラエル、パレスチナ自治区)までを征服しました。

新バビロニア王国は王ネブカドネザル2世(在位、紀元前605~562)の時に最も栄えました。ネブカドネザル2世は2つ前の記事で出てきました(第2章「苦難の民、ヘブライ人とユダヤ人」を参照)。ヘブライ王国が分かれて生まれたユダ王国を征服し(紀元前586年)、ユダの民をバビロンへと強制的に連行した王でした。

この記事では強大な帝国としてオリエント世界にその力を見せつけたセム語系のアッシリアと、その後に生まれた4つの王国について説明しました。

次の記事から、「最初の世界帝国」アケメネス朝について解説をします。その前にアケメネス朝を支配したイラン人の起源について見てみましょう。

この記事のまとめ

  • アッシリアはミタンニ王国から独立した
  • アッシリアの軍は強大で、その残虐さで有名
  • アッシリアは広大な領土を州に分け、それぞれの州に総督を置いて地方を管理した。また駅伝制を採用し、中央集権国家の体制を固めた
  • アッシュル=バニパル王が最大の領土を築く。バニバル王は首都ニネヴェに図書館を設立した。
  • アッシリアは過酷な支配により長続きせず、やがてリディア王国、エジプト、新バビロニア王国、メディア王国の4つに分かれる
  • 上の4つの王国の中で新バビロニア王国が最も勢力を伸ばし、ネブカドネザル2世の時に最も栄えた

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