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ローマの政治体制-共和政と元首政

(第4章2)

今回は古代ローマの2回目。前回はローマをよく表している2つの事柄を取り上げました。一つはローマの始まりのロムルス伝説、もう一つはローマ市民がローマを表わす言葉として用いた「S.P.Q.R.」という言葉についてです。

この記事では、「古代ローマまとめ」の前に、前置きとしてローマの政治の仕組み、政治体制を説明します。

ローマの歴史をコンパクトにまとめた「古代ローマまとめ」はこの章の3回目の記事になります。

4.2 ローマの政治体制-共和政と元首政

歴史家ポリュビオスの疑問

「ローマは1日にしてならず」ということわざがあります。確かにその通りですが、それでもこれだけ短い間にこれだけ広い領土を征服した国家はありません。

ところで前の記事では、ローマの歴史に触れると誰もがこんな疑問を抱くのではないか、と書きました。ここでもう一度挙げてみます。

「初めはイタリア半島の真ん中、ティベル川のほとりの小さな街だったローマは、それから地中海の周りを取り囲むほどの領土を手にした。その時代ではまさしく世界を手にした帝国だった。しかしなぜそのローマがある時からあっけなく力を失ってしまったのか?」

さてここでは、なぜローマがこれほどの領土を短い間に手に入れることが出来たのか、という点を考えてみましょう。それが出来たのはなぜアテネなどのギリシアのポリスではなく、ローマだったのでしょうか。

古代ローマに生きた一人の歴史家が同じ疑問を抱きました。その名をポリュビオスと言います。

ポリュビオスはギリシア人でしたが、紀元前168年にマケドニアがローマとの戦いに敗れた際に、ローマに人質として連れ去られた一人でした。マケドニアは第3章で出て来た、アレクサンドロス大王の死後に3つに分かれた王国の一つ(アンティゴノス朝マケドニア)でした(第3章:古代ギリシア「ヘレニズム時代」を参照)。人質といっても知性にあふれたポリュビオスはローマで自由に研究をすることが出来ました。彼はローマにて『歴史』という書物を書きます。

ポリュビオスが関心を持っていたのは、ローマがなぜこれほどの短期間に世界を制覇する力を付けたのか、ということでした。彼は『歴史』の中でこのように書きます。

「いかにして知りうる世界のほとんどがひとつの国家によって征服されたのか、いかなる国制がローマの単独支配を可能にしたのか」

この疑問に対してポリュビオスはこのように答えます。

「ローマの国政を牛耳ぎゅうじっていたのは3つの要素である。(中略)もしコンスルの権限けんげんに着目すれば、完全に君主政で王政のように見えた。しかし、もし元老院の権限に目をやれば、今度は貴族政のように見える。さらに、もし民衆の権限に目を向ける者がいたなら、明らかに民主政のように見えたのである。これら3つの要素がそれぞれに形をとってローマの国政に幅をきかしていたのである。」

前の記事で触れましたが、コンスルとはローマの行政機関である政務官のトップでした。コンスルは2名おり、1年間務めます。政務官を経験した者が集まる元老院は、実際にはローマの貴族が集まり、貴族の要求を取りまとめる場所でした。また「民衆の権限」という点では、ローマにも民会があり、また財産が少ない者の意見を訴えるための平民会もありました。

そのようなローマの政治の仕組み、体制を見た時、ポリュビオスはローマには3つの政治の形が同時にあるようだ、と述べました。確かにコンスルは皇帝のような存在だし、そこに注目すれば君主政(王政)に見える。でもローマには元老院もあり、そこに目を向けると貴族が政治を行っているように見える。さらに民会、平民会もあり、民主主義が広まっているようにも見える。このような3つの政治のパターンがバランスを保っていることがローマの強さだ、とポリュビオスは結論付けました。

つまり、コンスルと政務官がローマの実際の政治を執り行うとしても、元老院によって貴族たちが監視をしている、また民衆の集まりもあるので、民衆の意見によっても権力が縛られている。なので特定の者たちが権力を握って勝手な政治を行うことが出来ない、だからローマは国内の政治が安定した。国内でもめ事がないために、その力を外に向けることが出来る、とポリュビオスは考えました。

とはいえ、これも前の記事で考えましたが、ローマの政治は貴族がリードする政治でした。ただし民衆も貴族の好き勝手な政治には抗議する行動を起こしました。貴族も時に民衆の訴えを聞かなければなりませんでした。このような民衆の行動を身分闘争みぶんとうそうと言います。これは後ほど詳しく扱います。やはりローマは「S.P.Q.R.(ローマの元老院貴族と民衆)」、貴族だけでなく、民衆(ローマ市民)の力も無視出来ません。

ローマの政治体制は?

ではこれから実際のローマの政治体制を見ていきましょう。

ローマの政治の体制は基本的に共和政と言います。またこれまで何回か述べましたが、ローマは実際には貴族が政治をリードしていたので、貴族政、または寡頭政かとうせいと言えます。

寡頭政という言葉は、第3章の古代ギリシアの11回目の記事で出て来ました。一部の貴族や富裕な者たちによって行われる政治のことを指しました。

ローマの政治を実際に行うのはコンスル(執政官)をトップとする政務官たちです。政治で決められたことを実際に政策として行う役所を行政機関と言います。ローマでは政務官の組織が行政機関になります。

コンスルを含む政務官はすべて任期にんきは1年でした。また国家の非常事態が発生した時に特別に置かれるディクタトル(独裁官どくさいかんがいました。こちらは任期が半年(6ヶ月)で、再任(再び同じ役職を務めること)はありませんでした。ディクタトルとは国家の危機的な状態の時に、強力な権力で国家をまとめる必要が生じた時にのみ置かれる、臨時の役職です。ですからずっとディクタトルが置かれるということはありませんでした。

ですが、ディクタトルを1年以上に渡って務めた人物がいました。ローマ史上最高の英雄ユリウス=カエサルです。彼は最初は10年のディクタトルに、最後には終身(死ぬまで、という意味)のディクタトルとなります。

カエサルの怖いもの知らずの態度に対して(それが許されるほど民衆に人気があったのですが)、元老院の一部の者は反感を抱きます。カエサルの振る舞いは共和政、つまり話し合いの政治をぶち壊しにする、と感じたのです。結局カエサルは紀元前44年に、元老院の会議場で剣を持った者たちに囲まれて、命を落とします。

さてこれまで何度か出て来ましたが、元老院政務官を経験した者の集まりです。元老院の定員は最初300名でした。やがてこの定員の数は増えていきます。先ほど元老院の議員たちがカエサルの暗殺を計画した話がありましたが、コンスルや後のローマ皇帝も元老院の意見は無視出来ませんでした。

さらに古代ギリシアと同様にローマにも民会がありました。これも第3章古代ギリシアの11回目の記事で出て来ましたが、アテネでは将軍ペリクレスの時代に成人の男性のアテネ市民ならば誰もが民会に参加出来るようになりました。

しかしローマの場合は事情が異なります。ローマで「民会」と呼ばれる機関は、より詳しく言うならば「ケントゥリア民会」と言います。ケントゥリアというのは軍隊の単位、一つのまとまった軍団のことです。このケントゥリアは騎士重装歩兵といった身分で分かれています。これも古代ギリシアのところ(6回目)で出て来ましたが。騎士はもちろんのこと、重装歩兵も鎧や盾、槍などの武器を自分でそろえる必要がありました。ですから重装歩兵などの身分の高い軍団に入るには、それなりの財産が必要です。そこでこのケントゥリア民会は、平民の中でも財産のある者たちの意見が反映されやすい場所でした。

ところでローマの騎士(エクイテス)とは、貴族ではないが商業活動により財産を手にした者たちを指しました。またコンスルはケントゥリア民会の投票によって選ばれました。ですからコンスルも財産のある者たちが選んだ代表、といった役割を持つことになりました。

しかしながら財産のない平民も、貧しい生活を解消するために、政治に訴えなければなりませんでした。そういった政治活動によって、平民も参加できる平民会(トリプス民会)という議会が作られ、また平民会が選ぶ護民官ごみんかんという役職が置かれました。

ローマで政治をリードする貴族たちも、平民の訴えは聞かなければなりませんでした。なぜなら、財産のある平民が少なくなると、武器を用意して兵士になれる平民が少なくなるからです。これはローマの危機です。このようなローマの事情があって、平民たちも自分たちの訴えをある程度通すことが出来ました。

共和政から元首政へ

さて、これまでローマの政治の体制を見てきました。ローマは時代によって政治の体制が少しずつ変わります。そこで今度は、時代による体制の変化を見ていきます。

古代ローマ時代は大まかに2つの時代に分けられます。分かれ目となる年は紀元前27年、クレオパトラ7世のプトレマイオス朝を破ったオクタウィアヌスアウグストゥス尊厳そんげんある者、という意味)の称号を受け、事実上のローマ皇帝となった時です。その前の時代を共和政ローマ、その後の時代をローマ帝国と呼びます。

ここで「ローマ帝国」と書きました。またアウグストゥスのことを「事実上の」ローマ皇帝、とも書きました。ここは先に説明をしておきます。アウグストゥスからのローマの政治は「元首政げんしゅせい(プリンキパトゥス、principatus)」と言います。

アウグストゥスは自分のことを皇帝とは呼ばず「第一人者(プリンケプス、princeps)」という称号を好みました。これは単に元老院のトップの議員、という意味合いです。その元老院は強大な権力を持つ者を警戒します。そこでアウグストゥスは、自分も元老院の議員の一人で、元老院の意見も聞きますから安心してください、という意味で自分を「第一人者」と呼ばせました。

アウグストゥスが元老院に気を使ったのは、彼の親類のユリウス=カエサルが、ディクタトル(独裁官)となって権力を振るったことで元老院にうらまれ、暗殺された過去があるからです。

ちなみに、英語で学校の校長先生のことを principalプリンシパル と言います。これはこのプリンケプス(princeps)というラテン語が元になっている単語です。学校の第一人者はやはり校長先生なのでしょうか。

ところで、アウグストゥスが自分は皇帝ではないと言っても、彼は皇帝としか言いようのない権力を手にしました。

アウグストゥスは護民官を何年も務め、また彼の命令はコンスルと同じ、と見られました。さらに彼の権力を高めたのは属州を監督する総督(プロコンスル)に命令を与える権利でした。

属州とはローマが征服していった国々のことです。特に国境に近く、外国の軍が攻めやすい属州には集中して軍団が置かれました。アウグストゥスはこのような軍団が置かれている属州の命令権を持ちました。こうして彼はローマ軍の最高司令官(インペラトル)となりました。

このようにして、プリンケプスと呼ばれる人物がローマの政治のトップに立つ政治体制、元首政が生まれました。しかし、元老院の力も強く、ローマ皇帝は元老院の意見にも気を配らなくてはなりませんでした。

さらに時代が進むと、皇帝ディオクレティアヌス(在位、西暦284~305)は皇帝の独裁どくさいを強くした体制を作り上げます。これ以後のローマの政治体制は専制君主政せんせいくんしゅせい(ドミナートゥス)と呼ばれます。これは次の記事で説明します。

この記事ではローマの政治の仕組み、体制を見ました。大まかには、アウグストゥス以前の政治体制を共和政、アウグストゥス以後を元首政と言いました。ローマの政治の仕組みは少しややこしいので、次回の「ローマまとめ」の前に解説をしました。

次の記事では、古代ローマを大まかにまとめます。中間・期末テスト対策として大いに活用していただける「ローマまとめ」です。

この記事のまとめ

  • ローマの政治は主に3つの組織に分かれる、コンスル(統領)をトップとする政務官、政務官経験者で構成される元老院、そして民会(ケントゥリア民会)である。
  • 共和政ローマ時代に、平民が自分たちの権利を主張し身分闘争を起こす。その結果平民の集まりである平民会と、平民会が選ぶ護民官が置かれた
  • コンスル(統領)は2名で構成され、任期は1年である。
  • また国家の非常事態が発生した時には特別にディクタトル(独裁官)が置かれた。任期は半年再任はない
  • 元老院の議員はほとんどが貴族であり、ローマ貴族の意見、要求を政治に反映させる役割を担った
  • ローマの平民たちが政治的な行動を起こすことが出来たのは、平民たちも重要な兵力だった、という理由がある
  • オクタウィアヌスが紀元前27年にアウグストゥスの称号を授かった時に、ローマの政治体制は変化したと考えられている。それ以前は共和政、それ以後は元首政(プリンキパトゥス)と呼ばれる。
  • アウグストゥスは自らを「第一人者(プリンケプス)」と称した。これは元老院議員の第一人者という意味であり、このようにアウグストゥスは元老院にも配慮を示した
  • アウグストゥスは護民官を数回経験し、また彼の命令はコンスルと同等とされた。
  • アウグストゥスは属州総督(プロコンスル)への命令権を持ち、これは属州の軍団の命令権も含んだため、軍最高司令官(インペラトル)とも呼ばれた
  • 皇帝ディオクレティアヌスは皇帝の独裁を強める体制を作った。これ以降のローマの政治体制を専制君主政(ドミナートゥス)という

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