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古代ローマのはじめに

(第4章1)

第4章:古代ローマ

今回から古代ローマの解説に入ります。

ローマのあるイタリア半島はギリシアのあるバルカン半島の南端からアドリア海を挟んで西側にあります。そこで古代ギリシアの歴史と重なる部分もあります。そこで、古代ギリシアと共通する部分と違う部分を意識して読むと、ギリシアとのつながりが見えて理解が進みます。

「すべての道はローマに通じる」ということわざがありますが、今こそローマから学ぶべきものが沢山あります。第2章の最後の記事「民族の移動が歴史を作る」でも書きましたが、現在ヨーロッパ諸国にアフリカからの、またシリアなど中東から多くの難民が押し寄せています。ヨーロッパの新たな民族大移動の始まりとも呼べる現在に、ゲルマン民族の大移動によってあっけなく滅びてしまったローマ(滅びたのはその中の西ローマ帝国です)から学ぶ点は多くあります。

帝国の持つあらゆるものがローマにはあります。ではローマの歴史を探っていきましょう。

ローマの歴史をコンパクトにまとめた「古代ローマまとめ」はこの章の3回目の記事になります。

4.1 古代ローマのはじめに

ローマは旅行客が見て回る場所がいくらでもあります。これほど観光名所のある街もそうはありません。その名所の大部分は古代ローマ時代のものです。

私たちはそのような名所の数々によって、かつてのローマの栄光を知ることが出来ます。ですが、多くの人がローマに引かれ、興味を持つ理由はそれだけではありません。

ローマの歴史を魅力的にしているのは、誰もが次のような疑問を抱いてしまうからです。

「初めはイタリア半島の真ん中、ティベル川のほとりの小さな街だったローマは、それから地中海の周りを取り囲むほどの領土を手にした。その時代ではまさしく世界を手にした帝国だった。しかしなぜそのローマがある時からあっけなく力を失ってしまったのか?」

この疑問の答えを探ることが、ローマの歴史を学ぶ意味だと言えます。

答えはいくらでもありますが、ここではローマが軍隊を中心とした国家だったことに注目します。ローマが何よりも軍事国家だったこと、これがローマが強大だった理由ですし、またそれが混乱を招く理由でした。

ではローマの歴史を学ぶ最初に、ローマの始まりとして語り継がれるロムルスの伝説と、ローマという国家を表わす時に用いられる「S.P.Q.R」という4文字の言葉の意味を探り、ローマとはどのような国だったのかを探っていきます。

4.1.1 ローマの起こり-ロムルス伝説

古代ローマのはじめに、教科書では書かれていない伝説を説明します。

伝説(言い伝え)をどこまで歴史と考えて良いのか、という疑問があります。とはいえ、伝説というのはその地域の誰もが知っている話です。このような伝説は事実以上に人々の意識を形作っています。そこで様々な国の人々の考え方を知るためには、その土地の伝説、言い伝えにも注意を払わなければなりません。

それでは、これからローマが起こった物語であるロムルス伝説を見て、ローマ人の心を探っていきます。

さて、ローマのあるラティウム地方、そしてその住民であるラテン人を支配した王は、ギリシアのトロイア戦争で敗れたトロイアの王族の生き残りだった、という話があります。トロイアの伝説については第3章の4回目の記事「ミケーネ文明」の中で扱いました。トロイアはギリシア人(アカイア人)によって滅ぼされました。

そのトロイアの王族の生き残りの一人に、アエネアスという名の武将がいました。アエネアスは数々の苦難の後にイタリア半島にたどり着き、ティベル川のラテン人の住む地域(ラティウム地方)に落ち着きました。ラテン人とトロイア人の争いが起きますが、やがて和平が成立し、アエネアスの子孫がラテン人を治めます。

この話も、第2章の最後の記事「民族の移動が歴史を作る」で説明した、移動した民族が元からいた民族(先住民)を支配するパターンになっています。とはいえこれは伝説ですが。

アエネアスがラテン人を治めてから200年ほど後に、プロカスという王は、二人の息子に王国の領土と自分の財産をそれぞれ分け与えました。兄のヌミトルは王国の領土を選び、弟のアムリウスは財産を受け継ぎました。しかし、弟は兄の領土の方も奪おうとし、兄の子孫の命を奪おうとします。ヌミトルの息子たちは殺されますが、娘のレア=シルウィアは神殿の巫女みこにされました。巫女というのは神殿に仕える女性のことです。

巫女は神殿にて男性との関わりを断って生きています。しかしながら、近くを通りかかった軍神のマルスは巫女のレアを見初めてレアと関わりを持ちます。レアは子供を身ごもり、2人の男子を産みます。ですが、兄ヌミトルの子孫が産まれたことを知ったアムリウスは大いに怒り、この双子をティベル川に流してしまいます。

やがて双子を入れたかごは、川のほとりに生えていたいちじくの木の枝に引っかかります。そこにめすの狼がやって来て、双子に乳を飲ませます。その後にこの双子は近くの羊飼いに発見され、羊飼いの夫婦は双子の兄をロムルス、弟をレムスと名付けます。

ロムルスとレムスが大人になり、彼らは自分たちの生い立ちを知ります。2人は若者たちを率いて、彼らの母のレアがかつていた街を攻め落とし、彼らの祖父のヌミトルは再び王となります。

それでもロムルスとレムスの戦いの日々は続きます。自分たちが拾われたティベル川沿いの場所に新たな都を築こうとしました。ですが2人は別々の場所に都を建てようとします。この2人の兄弟は争いますが、結局はロムルスが勝利を納めました。このロムルスの名にちなんで、新しい都はローマと名付けられました。

この伝説の日は紀元前753年4月21日とされています。今でもこの日にはローマ市民の祭りが催されます。

その後ローマにはロムルスを含めて7人の王がいた、と記録されています。その後ローマは王を置かないと決め、共和政となります。紀元前500年頃に共和政となったと考えられています。

ロムルス伝説が表わすローマの運命とは?

ところで、このような国を作った英雄が戦いに明け暮れる伝説はどの国にもあります。とはいえこのロムルス伝説はローマのたどる運命が暗示されているように思えます。まず、ロムルスはトロイアのかつての戦士の子孫であること、ロムルスとレムスの兄弟が軍神のマルスの子であるという点、そして牝の狼の乳を飲んで2人が生き延びた部分です。

この伝説の中にもローマを建てたロムルスは、軍人として生きる運命を背負っていたように思われます。そしてその後のローマの支配者たちも、何よりまず軍人として成果を挙げることが求められていたのではないか、と考えることは出来ないでしょうか。

それから後の時代にローマは地中海の周りの国々をすべて自分たちの領土とし、「ローマの平和」と呼ばれる時代がやってきます。その平和な時代にあっても、ローマの民は闘技場で催される剣を持った戦士(剣闘士けんとうし)たちのお互いを切り付け合う試合や、戦車を走らせながら戦車をぶつけ合い、戦車の上の騎士を引きずり下ろす戦車競技に熱狂しました。常に戦うことが要求されたローマは変わることがなかったようです。

これまでのところで、軍事国家であり続けたローマの運命を、ローマの始まりのロムルス伝説に重ねて考えました。しかし、軍事大国ローマを支えた国を治める仕組み、巧みな政治の仕組みもローマ独特のもので、そちらにも注目すべきです。次のところで、ローマの政治の仕組み、体制を考えてみましょう。まずローマの体制を表わす4文字の言葉がありますが、その「S.P.Q.R.」という言葉を見てみましょう。

4.1.2 ローマを表わす4文字「S.P.Q.R.」とは?

ここで出て来た「S.P.Q.R.」とはローマ人たちが自分の国を呼ぶ呼び名でした。またこれはローマの政治の体制を表わすラテン語の一文を略して4文字にしたものです。

「S.P.Q.R.」は以下のラテン語の文を省略したものです。

Senatus Populusque Romanus

Senatusとは元老院(の貴族)という意味、Populusqueは民衆、最後のRomanusはローマの、という意味です。この文を日本語に直すとこのようになります。

「ローマの元老院貴族と民衆」

元老院というのは後で述べますが、ローマの貴族が集まった議会です。その特別な貴族とそうではない民衆、これらの者たちでローマが構成されている、ということを上のラテン語の文と、それを省略した「S.P.Q.R.」は表わしています。

さらにこの言葉からは、当時のローマの政治は貴族による話し合いで決められることがある程度認められていたことも分かります。ローマの初期の歴史は、貴族に対して平民たちが自分たちの権利を主張して争った(身分闘争)、と説明されます。しかしその平民たちも、ある程度貴族たちが政治を取り仕切るのは当然だ、と考えていました。

「S.P.Q.R.」とローマの政治の体制

では次に「S.P.Q.R.」と表現される、ローマの政治の体制を見てみましょう。

ローマをギリシアの様々なポリスや他の都市国家とは違う点があるとすれば、共和政という政治の仕組みが根付いていたことです。

共和政という体制をごく簡単に述べるならば、選ばれた者たちが話し合いで政治を行う体制、と言えます。「選ばれた者たち」が「話し合う」という2点がポイントです。

ローマでの選ばれた者たちは貴族です。共和政の時代のローマではギリシアのポリスと同じく民会がありました。しかし民会の参加者は騎士(エクイテス)と呼ばれる階級を始めとした財産のある者たちだけでした。やがて財産のない平民たちによる平民会という議会が出来ます。

民会に対してパトリキと呼ばれる貴族たちの集まる議会は元老院と呼ばれました。元老院はローマの政治に関わる役職(政務官)を経験した者たちの議会ですが、政務官の経験者のほとんどは貴族の出身です。ですから元老院はローマの貴族の意見がまとめられる場所です。

ローマの行政の組織と言える政務官のトップはコンスル(統領)と言いました。元老院はこのコンスルにアドバイスを与える機関、とされていますが、実際には政治にも関わった経験のある貴族がローマの政治に意見をする場所でした。

ローマではこのように、貴族たちの意見によって政治が行われました。では貴族たちはローマという国家に何を求めたのでしょうか。

一言で表すならば、新しい土地と貴族たちがさらに儲ける機会を作ることでした。新しい土地と商業活動の機会は周りの領土を征服することで得られます。つまり貴族たちは国家に対して、新たな領土を征服することを求めました。

貴族たちは高い教育を受け、知識があり、また身だしなみや話す言葉に品があることが求められました。貴族たちには集まって国家を良い方向に導くことが求められました。ローマの民は平民も含めてそのような政治を認めていました。

貴族による政治の光と影

ですが貴族たちによって政治が行われるローマは、周りの国々には残忍な国家だと思われたに違いありません。

例えば、征服した領土は属州と呼ばれましたが、元老院の議員にはその属州を監督する地位(総督と呼ばれる)が与えられました。また新たな属州の土地を買い占め、大きな農場を開きました。農場ではローマと戦った他国の兵士たちが奴隷にされて働いていました。さらに征服戦争によって新たに奴隷を得た場合には、その奴隷たちはお金で売り買いが出来ました。貴族たちの中にはそういった奴隷の売り買いで富を手にした者たちもいたでしょう。

加えて、先ほど述べた、剣で傷つけあう戦いを見世物みせものにされた剣闘士たちも奴隷でした。戦争に負けて捕虜にされた奴隷たちは、血を見て喜ぶローマ市民たちの見世物にもされました。

ローマを表わす「S.P.Q.R.」は良い家柄の品のある貴族たちによる政治とそれに従う民衆、という意味に取ることが出来ます。しかしながら、そのようなローマの体制はローマが軍事的な国家であることを求めました。

このようにして、ローマは軍事国家として成長し、また軍事国家として道を踏み外し、ついには優れた軍人の多いゲルマン民族によって滅ぼされました。

今回の記事でははローマの歴史の初めに、教科書で取り上げられない部分を紹介しました。ローマの特徴をよく表している2つの事柄を考えました。一つはローマの始まりを物語るロムルス伝説でした。もう一つはローマ市民がローマを表わす時に使った「S.P.Q.R.」という言葉についてです。

次の記事では、ローマの政治の仕組み、政治体制について説明をします。

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