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ペロポネソス戦争とその後の混乱、マケドニアの台頭

(第3章13/15)

今回は古代ギリシアの13回目(全15回)。前回はアテネを中心としたデロス同盟とアテネの全盛期について考えました。

この記事ではそのデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との戦いである、ペロポネソス戦争について見ていきます。続いて、ペロポネソス戦争後のギリシアの混乱と、その間に勢力を増していった、ギリシアの北のマケドニアについて見ていきます。

3.4.5 ペロポネソス戦争

アテネを中心としたデロス同盟は、同盟したポリスから軍船や兵士、または軍を維持する資金を集め、勢力を増していきます。

これに警戒したポリスがあります。ペロポネソス同盟の中心だったスパルタです。

アテネとスパルタの対立はギリシアを二つに分ける戦争へと発展します。このようにしてペロポネソス戦争(紀元前431~404)が始まりました。

戦争の初めに、アテネの将軍のペリクレスはアテネ市民をアテネの城壁の内側に避難させます。アテネ市街は港と城壁で繋がっており、海上輸送のルートを確保し、軍船で戦えば勝てる、という計算がありました。戦いの最初のうちはペリクレスの思惑おもわく通りに進みます。

しかし紀元前430年の春に、アテネの市街には人が密集していたために、疫病が流行しました。この疫病のために市民の3分の1が死亡しました。また翌年の紀元前429年にはペリクレスも亡くなります。おそらくこの疫病のためだと言われています。

ペリクレスは亡くなるまで15年間も将軍の地位にいました。ペリクレスが亡くなった後に、彼に並ぶような強力な指導者はいませんでした。

デマゴーゴスの出現

やがて、先行きが分からなくなったアテネには、ひたすら戦うことをあおり立てる政治家が現れました。このような者たちをデマゴーゴス(扇動せんどう政治家)と言います。デマゴーゴスの出現によって、アテネはスパルタとの和平(戦争を終結させるための話し合い)の機会をことごとく逃し、戦争はいたずらに長引き、アテネの権威は落ちました。

デマゴーゴスの一人のアルキビアデスは、イタリア半島の南のシチリア島への遠征を提案します。紀元前415年にアテネ軍はシチリア遠征を行いますが、2年後の前413年に遠征軍は全滅します。

ところで、2つ前の記事(11回目)で民主主義は一つの意見に急激に傾いてしまう危険性がある、と述べました。この時のアテネがまさしくそうでした。アテネの市民はデマゴーゴスの意見に振り回されるようになります。

スパルタはアケメネス朝の支援を得て、アテネを追い詰めていきます。一時アテネが勝利を納め、スパルタとの和平の機会もありましたが、その時もデマゴーゴスの強硬な主張に押されて、和平の機会を逃してしまいます。

最終的にアテネは海上からの物資の輸送を断たれ、食料の輸送も途絶え、飢餓が市民を襲います。このため紀元前404年についにアテネは降伏しました。

戦後のアテネ

戦争終結後にアテネでは、三十人政権という寡頭派の政権が出来ます。2つ前の記事(11回目)でも出ましたが、寡頭制とは少数の指導者による政治を指しました。しかし、多くの市民が殺害されるなどの暴政が行われ、1年後の紀元前403年にはまた民主政となりました。

アテネの権威は落ちましたが、紀元前403年に民主政が回復されたことで、アテネではその後80年民主政が続きます。この時の改革では、法律が民会の決議よりも力を持つ、と確認されました。民会の判断で法律が次々と変わってしまうことを防ぐために、法律が簡単に変えられないようにしました。デマゴーゴスによって国が混乱した経験により、民主政がより充実したものとなりました。

これまでアテネとスパルタの戦いと言える、ペロポネソス戦争について解説しました。アテネがなぜデマゴーゴスに振り回されるようになったのか、がポイントです。

続いて、ペロポネソス戦争後のギリシアの混乱と、その間に勢力を増していった、ギリシアの北のマケドニアについて見ていきます。

3.4.6 ペロポネソス戦争後のポリスの混乱とマケドニアの台頭

ペロポネソス戦争は、デロス同盟ペロポネソス同盟との戦いでしたが、実際には2つの有力なポリス、アテネスパルタとの戦いでした。

この戦争により、アテネとスパルタの地位は下がってしまいます。そこでそれ以外の様々なポリスが力を付けますが、それも短い間で終わってしまいます。テーベコリントスといったポリスの存在が目立ち始めます。

とはいえ、民主政を回復したアテネは、再び商工業が活発になり、公共事業も盛んに行われました。

ペロポネソス戦争後には、勝利したスパルタがギリシアの中心的存在となろうとしますが、アテネ、テーベ、コリントスなどのポリスが不満を持ち、戦争状態となります。これをコリントス戦争(紀元前395)と言います。スパルタは勢力の維持は困難だと判断し、アケメネス朝に助けを求め、対抗するポリスとの和平に乗り出します。スパルタは他のポリスと大王の和約(紀元前386)を結びます。和平とは、戦争を終結させるための話し合いのことです。

その後、テーベエバミノンダスの下で実力をつけ、スパルタに戦いを挑み、スパルタに圧勝します。これをレウクトラの戦い(紀元前371)と言います。この時、スパルタで最も低い身分だったヘーロイタイが自由の身となります。この章の7回目の記事で出て来ましたが、ヘーロイタイはスパルタ人の土地を耕し、スパルタ人に貢ぐ立場の者たちでした。

スパルタはヘーロイタイを失うことで、農作物による収入が途絶えてしまいます。これによりスパルタは没落していきます。

しかし、テーベの勢力も長続きしません。名将エバミノンダスの死によって、テーベはすぐに衰えてしまいます。

その間にアテネが再び力を付けます。紀元前378年にアテネは他のポリスと第二次の海上同盟を結びます。今回はデロス同盟の時の教訓から、他のポリスの独立を保証し、同盟の費用の徴収もしませんでした。ですがアテネはやがて他のポリスに高圧的になり、同盟しているポリスは離れていきます。

ペロポネソス戦争後には様々なポリスが争いますが、ギリシアの状況はより不安定になっていきました。

ギリシアの支配権はマケドニアに

その中で実力を付けていったのが、ギリシアの北に位置するマケドニアです。マケドニアが実力を付け始めるのは、フィリッポス2世(在位、紀元前359~336)の時代です。フィリッポスは都市を整備したり、農業の生産を高める政策を行い、また軍隊については長槍隊ながやりたいを編成するなどの改革を行いました。この長槍隊はフィリッポスの息子のアレクサンドロス大王が東方の地へと大遠征を行う際に活躍します。

このようにしてマケドニアが勢力を増すにつれて、アテネとテーベなどのポリスはマケドニアに反対の姿勢を見せます。紀元前338年のカイロネイアの戦いで、アテネとテーベの連合軍とマケドニアが戦います。この戦いでマケドニアが勝利します。

カイロネイアの戦いでギリシアの支配権はマケドニアに移りました。しかし、フィリッポスはギリシアの各ポリスを尊重してコリントス同盟を結成します(紀元前337)。フィリッポスは同盟の盟主という立場に就きます。

その後コリントス同盟において、フィリッポスを指導者としてペルシア(アケメネス朝)に遠征をすることが決められます。ですがその前に、紀元前336年にフィリッポスは暗殺されました。

フィリッポスについては、彼がギリシアの文化を好んでいたことで有名です。そこで息子のアレクサンドロスの家庭教師として、古代ギリシア最大の哲学者、アリストテレスを迎えました。

この記事では、最初にアテネとスパルタの戦いと言える、ペロポネソス戦争について解説しました。ここではアテネがなぜデマゴーゴスに振り回されるようになったのか、がポイントでした。続いてペロポネソス戦争後のギリシアの不安定な情勢と、その後にマケドニアが勢力を増していった様子を見ていきました。

次の記事では、33歳の若さで亡くなった英雄、アレクサンドロス3世(大王)の大遠征を見ていきます。

この記事のまとめ

  • アテネを中心としたデロス同盟が結成され、スパルタを中心としたペロポネソス同盟もあった。そこでこの2大勢力が戦うペロポネソス戦争(紀元前431~404)が起こった
  • 戦争の初め、アテネの将軍のペリクレスは市民を城壁の内側に避難させた。しかし紀元前430年の春に、アテネの市街に疫病が流行し、市民の3分の1が死亡。翌年にはペリクレスも亡くなる
  • ペリクレスの死後、デマゴーゴス(扇動政治家)と呼ばれる好戦的な政治家が現れた。これにより、アテネはスパルタとの和平の機会をことごとく逃し、アテネの体制は疲弊した
  • デマゴーゴスの一人のアルキビアデスは、無謀なシチリア島への遠征を提案した。紀元前413年に遠征軍は全滅した
  • アテネは海上からの物資の輸送を断たれ、飢餓が襲った。このため紀元前404年アテネは降伏した
  • ペロポネソス戦争終結後のアテネでは、三十人政権という寡頭派の政権が出来るが、暴政が行われたため、1年後の紀元前403年にはまた民主政となった
  • 再び民主政が回復された後、アテネではその後80年民主政が続く。この時、民会の判断で法律が次々と変わってしまうことを防ぐために、法律が民会の決議よりも力を持つ、と確認された
  • ペロポネソス戦争により、アテネとスパルタの地位は下がり、テーベコリントスといったポリスが台頭した
  • ペロポネソス戦争後に勝利したスパルタはギリシアの中心的存在となろうするが、アテネ、テーベ、コリントスなどのポリスが不満を持ち、戦争状態となった(コリントス戦争(紀元前395))。スパルタはアケメネス朝に助けを求め、他のポリスと大王の和約(紀元前386)を結ぶ
  • エバミノンダスの下で力を付けたテーベはスパルタに戦いを挑み、スパルタに圧勝した(レウクトラの戦い(紀元前371))。この時、スパルタの下層民ヘーロイタイが自由の身となり、農作物による収入が途絶え、スパルタは没落した
  • 名将エバミノンダスの死によって、テーベはすぐに衰退した
  • アテネが再び力を付け、紀元前378年に他のポリスと第二次の海上同盟を結んだ
  • マケドニアフィリッポス2世長槍隊を編成するなどの改革を行い、ポリスの混乱の中で実力を付けていった
  • 紀元前338年のカイロネイアの戦いで、アテネとテーベの連合軍とマケドニアが戦うが、マケドニアが勝利した
  • ギリシアの支配権はマケドニアに移り、フィリッポスは紀元前337年にコリントス同盟を結成した。フィリッポスは同盟の盟主という立場に就く
  • コリントス同盟において、フィリッポスを指導者としてペルシア遠征が決められるが、遠征前の紀元前336年にフィリッポスは暗殺された

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