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デロス同盟とアテネの全盛期

(第3章12/15)

今回は古代ギリシアの12回目(全15回)。前回はアテネの民主政の完成について考察しました。

この記事では、アテネを中心にポリスの間で結ばれたデロス同盟について解説します。ここでもペリクレスが重要人物です。ペリクレスはアテネの全盛期と言える時代を作りました。

3.4.4.5 デロス同盟とアテネの全盛期

最初にデロス同盟について、2つ前の記事(10回目)の最後の部分を振り返りましょう。

紀元前480年と479年のアケメネス朝の3回目の遠征軍への勝利により、ギリシア連合軍の勝利はほぼ確定しました。しかし、アケメネス朝は依然強く、ギリシアに再び攻めて来る恐れがありました。

アケメネス朝の攻撃に備えるために、アテネを中心として紀元前478年にデロス同盟が結ばれました。同盟の本部はエーゲ海中心のデロス島に置かれ、同盟の金庫(資金を保管する場所)も最初はデロス島にありました。

同盟とはいえ、同盟軍の指揮はアテネが執ることとなりました。また管財人という同盟の資金を管理する者が10人選ばれましたが、その10人すべてがアテネ市民でした。最初からアテネ中心の同盟でした。

同盟したポリスは軍船か兵士を出すことが求められました。それが出来ない場合には同盟に資金を納める義務がありました。多くのポリスは資金を提供する方を選びました。

同盟が結ばれてから最初のうちは、同盟の政策は同盟したポリス間の同盟会議によって決められました。ですが、そのうちアテネが他のポリスを支配するようになります。

同盟から「アテネ帝国」へ

紀元前454年にアテネのペリクレスの政策により、同盟の金庫がデロス島からアテネに移されました。この時に各ポリスが納めていた同盟資金の一部がアテネの予算に組み入れられます。アテネは同盟の資金の一部を自分たちのために用いるようになりました。

さらに、アテネは同盟したポリスに自分たちの貨幣(金属のお金)や度量衡どりょうこう(ものさし)を用いることを強制します。他にも、他のポリスの問題をアテネの民衆裁判所で審議したり、他のポリスにアテネの役人や兵士を送り込んだりしました。

ここまで来ると同盟とは名ばかりで、実際にはアテネが周りのポリスを支配している状況となりました。特に紀元前450年以降にこの傾向が強まります。そこでアテネ支配のデロス同盟は「アテネ帝国」と呼ばれたりもします。紀元前449年には、アケメネス朝との協議によりペルシア戦争は終結しますが(カリアスの和約)、その後もデロス同盟は継続されました。まさしく、デロス同盟はアテネが他のポリスを支配する手段となりました。

度量衡とは?

ところで、先ほど「度量衡どりょうこう」という言葉が出て来ました。世界史では帝国の仕事として、度量衡を統一したことが良く出て来ます。この度量衡という言葉についてここで説明します。

先ほどはかっこ内に(ものさし)と書きました。より詳しく述べますと、「度」は長さ、「量」は体積(または容積)、「衡」は重さを指します。まとめて度量衡とは、長さ、重さ、体積(または容積)の単位、またはそれを測る物差しやはかりのことを指します。

現在の日本の度量衡の単位はメートル法が採用されています。ですが、今の日本でも土地や田畑の面積を測る時に「つぼ」や1反、2反といった「たん」の単位が使われます。これは昔から使われていた単位で、尺貫法しゃっかんほうという単位の名残です。

付け加えますと、「衡」は重さを指す、と先ほど述べましたが、正しくは質量しつりょうという単位です。重さ(重量)と質量の違いはここでお伝え出来ません。

さて、デロス同盟ともう一つの同盟がギリシアにありました。それはスパルタを中心としたペロポネソス同盟です。スパルタはデロス同盟によってアテネの勢力が増すことを恐れるようになりました。こうしてデロス同盟とペロポネソス同盟、アテネとスパルタというギリシアの2大勢力に分かれた戦争が起こります。これがペロポネソス戦争(紀元前431~404)です。

ペリクレスの下でのアテネの繁栄

ところで、デロス同盟が結成されてからペロポネソス戦争が始まるまでの期間は、アテネが最も栄えていた時代でした。

前の記事で、アテネの民主派のリーダー、エフィアルテスとペリクレスが様々な改革を行い、民主政を完成させたことを説明しました。その後、エフィアルテスが暗殺された後、ペリクレスが実権を握ります。特に紀元前443年以降、15年もの間将軍の職に就き、アテネの最高指導者となりました。

ペリクレスは民会を通して将軍に任命され、ずっと将軍の地位にいました。ペリクレスが将軍の地位にいたアテネの状況を、ギリシアの代表的な歴史家のトゥキュディデスはこのように述べました。

「言葉では民主主義と呼ばれたが、実際には第一等の人物による支配」

ここでの「第一等の人物」とはまぎれもなくペリクレスを指します。民会が最高機関である民主主義とはいえ、結局将軍に選ばれるのはペリクレスでした

では、ペリクレスが行った民主化への改革を見てみましょう。

まずペリクレスはアテネの民主政をさらに推し進めました。まず平民でもアルコンなどの役人になれるようになりました。また役人が抽選で選ばれるようになりました。これは前の記事で扱いました。

他には、民衆裁判所には市民から陪審員が抽選で選ばれましたが、この陪審員に手当が支給されるようになり、さらに市民が裁判に参加出来るようになりました。他にも五百人評議会の評議員や役人にも手当てが支給されました。これは市民が誰でも政治や行政、裁判に参加できるようにするためです。これまでのアテネでは、このような役職はすべてボランティアで行われていたので、財産のある市民しか参加できませんでした。

さらにペリクレスは様々な公共事業を行い、市民の、特に平民たちの支持を得ました。ペルシア戦争で破壊されたアテネのアクロポリスを建て直し、フェィディアスらの建築家によりパルテノン神殿が建てられました。宗教的な祭典が盛んに行われると同時に、演劇も盛んに上演されました。市民にはこのような演劇を見る費用も与えられました

演劇ではギリシア悲劇という独特のスタイルが生まれました。アテネの三大悲劇作家と呼ばれる、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスの3人の作品は今でも繰り返し上演されます。

ただし、アテネがこれだけ栄えたのは、デロス同盟の資金をアテネのために使ったからでもあります。ペルシア戦争で中心的な役割を果たしたアテネの力がそれだけ強大になっていたのです。

この記事では、アテネが中心となって結成されたデロス同盟について解説しました。またペルシア戦争後のアテネの全盛期についても見ました。将軍ペリクレスがアテネの全盛時代を作りました。

次の記事では、アテネを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との戦い、ペロポネソス戦争を扱います。

この記事のまとめ

  • 紀元前478年にアケメネス朝の攻撃に備えるために、各ポリスはアテネを中心としてデロス同盟を結んだ
  • デロス同盟軍の指揮はアテネが執った。また管財人という同盟の資金を管理する者が10人選ばれたが、10人すべてアテネ市民だった
  • 同盟したポリスは軍船か兵士を出すか、それが出来ない場合には同盟に資金を納める義務があった。多くのポリスは資金を納めた
  • 紀元前454年ペリクレスの政策によりデロス同盟の金庫がデロス島からアテネに移された。これより同盟資金の一部がアテネの予算に組み入れられた
  • アテネは同盟したポリスに自分たちの貨幣や度量衡を用いることを強制した。また他のポリスの問題をアテネの民衆裁判所で審議したり、アテネの役人や兵士を送り込んだりした
  • アテネ支配のデロス同盟は「アテネ帝国」と呼ばれることもある
  • スパルタを中心としたペロポネソス同盟があり、スパルタはデロス同盟によってアテネの勢力が増すことを恐れた。こうしてアテネとスパルタというギリシアの2大勢力に分かれた戦争(ペロポネソス戦争)が起こった
  • ペリクレスはアテネの民主政をさらに推し進め、平民でもアルコンなどの役人になれるようにした。また役人が抽選で選ばれるようになった
  • 民衆裁判所の陪審員に手当が支給されるようになり、五百人評議会の評議員や役人にも手当てが支給された
  • ペリクレスは様々な公共事業を行った。アテネのアクロポリスを建て直し、フェィディアスらの建築家によりパルテノン神殿が建てられた。宗教的な祭典や演劇も盛んに上演された。市民には演劇を見る費用も与えられた
  • ギリシア演劇ではアテネの三大悲劇作家と呼ばれる、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスの3人の作品が有名である

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