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アレクサンドロスの大遠征

(第3章14/15)

今回は古代ギリシアの14回目(全15回)。前回はペロポネソス戦争後のギリシアの不安定な情勢と、その後にマケドニアが勢力を増していった様子を見ました。

この記事では、33歳の若さで亡くなった英雄、アレクサンドロス3世(大王)の大遠征を見ていきます。

3.5 ポリス以後の時代

3.5.1 アレクサンドロス(マケドニア)の大遠征

マケドニアフィリッポス2世の子、アレクサンドロス3世(在位、紀元前336~323)が王となってからの生涯は戦いに明け暮れた日々でした。

アレクサンドロスは父フィリッポスが暗殺された後に王となりました。その後紀元前334年にギリシアの同盟軍を加えた兵によって東側へ、アケメネス朝の領土へと攻め入りました。アレクサンドロスはマケドニアを中心に結ばれたコリントス同盟のトップとして、同盟軍を従えることが出来ました。

アレクサンドロスの軍は、マケドニア人の貴族による騎兵隊と、ギリシア人の重装歩兵による長槍密集隊、そして軍船による艦隊から成りました。

紀元前333年のイッソスの戦いでアケメネス朝のダレイオス3世(在位、紀元前336~330)を打ち負かし、この戦いが東側への征服の足掛かりとなります。

翌年紀元前332年にはフェニキア人の拠点であるティルスを破壊します。この時にフェニキア人によるペルシア海軍(アケメネス朝の海軍)も滅ぼされます。第2章で出て来ましたが(第2章「東地中海のセム語系民族-陸のアラム人と海のフェニキア人」を参照)、フェニキア人は地中海での交易を活発にし、地中海沿岸に多くの植民市を建設しました。このフェニキア人の活動が大きな打撃を受けました。しかし、北アフリカの植民市カルタゴは残り、カルタゴは後にローマ(共和政ローマ)ポエニ戦争(紀元前264~146)で戦います。

この頃にダレイオス3世は講和(戦争を終結させるための話し合い)の申し出をします。ですが、アレクサンドロスはこれを拒否し、遠征を継続し、今度はエジプトへと向かいます。

アレクサンドロスはエジプトを無血で占領します。無血とは戦いの死者がいない、という意味で、戦わずしてエジプトに侵入出来ました。それほどアケメネス朝の支配は弱くなっていました。

この時、アレクサンドロスはエジプトの神殿を参拝し、自分がファラオの後継者だという神託しんたく(神からのお告げ)を得た、と言われています。それが本当かは別としても、世界征服への願望を持ち始めたことは事実でしょう。

それからエジプトのナイル川の河口にアレクサンドリアという都市の建設を命じます。このアレクサンドリアは「ないものは雪だけ」と言われるくらい繁栄した都市となりました。

紀元前331年にはティグリス川近くのアルベラ・ガウガメラ間の戦いで圧勝し、ここでアケメネス朝は事実上崩壊しました。それから壮大な神殿を持つ都市ペルセポリスを焼き払います。翌年紀元前330年、逃走するダレイオス3世は部下に暗殺され、これによりアケメネス朝は滅びます。

その後もバクトリア(現在のアフガニスタン)、ソグディアナ(現在のウズベキスタン)と進撃します。しかし、アレクサンドロスの軍がインドへと侵入した時に、兵士たちがこれ以上進むのを拒否したために、ここで遠征は終わりました。

インドから戻り、かつてのアケメネス朝の都だったスサで、マケドニア人の男性とペルシア人女性との合同結婚式を行います。アレクサンドロスは東西の文化を融合させようとします。合同結婚式もその中の一つでした。このように、アレクサンドロスは西側(マケドニア、ギリシア)と東側(昔のアケメネス朝の領土)の生活習慣や風習をどちらも取り入れることによって、自分はマケドニアだけの支配者ではない、征服した全世界の支配者なのだとアピールしました。

しかしながら、アレクサンドロスは紀元前323年に熱病により33歳で亡くなってしまいます

アレクサンドロスの急逝きゅうせいの後、彼の部下の将軍たちの後継者(ディアドコイ)の争いが始まります。紀元前300年以降には、アレクサンドロスが征服した広大な領土は3つの王国に分かれます。

この記事では、マケドニアのアレクサンドロス3世の東方への大遠征を見ました。歴史の転換点となる時代にはアレクサンドロスのような英雄が現れ、広大な領土を征服します。これだけの征服が出来たのは、アレクサンドロスの才能と勇敢さに加えて、アケメネス朝の支配がすでに全土に及ばなくなっていたこともあります。

次の記事では、アレクサンドロスの大征服の後の時代、ヘレニズム時代を見ていきます。

この記事のまとめ

  • マケドニアの王アレクサンドロス3世は紀元前334年にアケメネス朝の領土へと遠征を開始した
  • アレクサンドロスの軍は、マケドニア人の貴族による騎兵隊と、ギリシア人の重装歩兵による長槍密集隊、そして軍船による艦隊から成った
  • 紀元前333年のイッソスの戦いでアケメネス朝のダレイオス3世を打ち負かした
  • 紀元前332年にはフェニキア人の拠点であるティルスを破壊した
  • ダレイオス3世は講和の申し出をしたが、アレクサンドロスはこれを拒否した
  • アレクサンドロスはエジプトを無血で占領し、ナイル川の河口に自分の名を取った都市アレクサンドリアを建設した
  • 紀元前331年アルベラ・ガウガメラ間の戦いで圧勝し、アケメネス朝は事実上崩壊。また壮大な神殿を持つ都市ペルセポリスを焼き払った
  • 紀元前330年、逃走するダレイオス3世は部下に暗殺され、アケメネス朝は滅亡した
  • その後バクトリア、ソグディアナと進撃。しかし、インドへと侵入した時に兵士たちがこれ以上進むのを拒否し、遠征は終了した
  • アレクサンドロスはマケドニア人の男性とペルシア人女性との合同結婚式を行うなど、東西の文化を融合させようとした
  • アレクサンドロスは紀元前323年に熱病により33歳で亡くなった。アレクサンドロス死後、後継者(ディアドコイ)の争いが始まった。紀元前300年以降、領土はアンティゴノス朝(マケドニア)セレウコス朝(シリア)プトレマイオス朝(エジプト)の3つの王国に分かれた

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